Record

記録者: 古閑 茶太郎 (ENo. 1)
Version: 6 | 確定日時: 2026-02-08 04:00:00

何度も眠れない夜を過ごした。
眠れないというより、眠るのが怖かったのかもしれない。
かなしいことは眠っている間に起こり、そして終わってしまうという経験が、棘のように身体に突き刺さったままだったからだ。
気持ちを落ち着かせるために処方された薬なんて、底まで落ちた痛みにはなんの意味もないみたいだった。
胸の奥の痛みはあまりに気軽に牙を剥き、僕の精神を蝕んだ。
特になにかキッカケや前触れがあるわけでもなく、僕は日夜問わず突然に……呼吸が浅くなって、視界が滲んで、呻くしかなくなってしまうのだ。

その度に、
「もう、終わりにしたい」という言葉が、喉の奥まで上がってきた。
それは「死にたい」というより、もうこれ以上、痛みを感じたくないという願いだった。

あまりにも僕が痛がるものだから。
あまりにも、苦しそうに息をするものだから。

ひとみんは、ある夜、とても真剣な顔で僕を見た。

「……一緒に、終わりにしようか」

その声には躊躇いがなかった。
慰めでも、衝動でもない。

「ふたりで、
 幾一のところに行こう」

真っ直ぐな視線と、結末の責任を引き受けるような言い方。
それがあまりにも誠実で、
あまりにも優しくて……
だから、魅力的に思えてしまった。

僕と、ひとみんと。そして幾一。
三人で、ここではないどこかへ行って、痛みも孤独もない場所で穏やかに過ごす。
そんな光景を、一瞬だけ、はっきりと思い描いてしまった。

僕は涙でぐちゃぐちゃになった目を
ぎゅ……っと歪めて、それが「笑顔」と呼ばれる形になるように無理やり整える。

でも同時に、頭のどこかが冷静に告げていた。
そんな場所は、ないんだ。
魂も、あの世も、本当にはなくて。
あるのは、僕の、僕達の意識が……終わることだけだ。

……それでも。
この胸の痛みが終わるという一点だけで、
それは、十分すぎるほど魅力的だった。

だけど、その終わりに……
この、余りにも優しく、強くて美しい人を
巻き込むのだけはどうしても、嫌だった。

「……ありがとう、ひとみん」

声は、途切れ途切れだった。

「でも、僕……
 まだ、ひとみんを死なせたくないみたいだ」

言い切る力はなくて、ただ、そう思っている。という事実だけを、そこに置くように伝えることしかできなかった。

ひとみんは一瞬、ひどく顔を歪めて。
それから、何も言わずに僕を強く抱き締めた。

僕の頭を、背中を……
何度も、何度も、擦る。

まるで、

「それでいい」

と言い聞かせるみたいに。



そうして僕たちは、つまりは……死に損なってしまった。
あの世へ行くという話は「また今度」という、アリともナシともハッキリしない形で保留になった。


その代わりに、僕達は引っ越しをした。

南向きの大きな窓と、
作業ができる、ガレージがついた物件だ。

正直、三人の思い出が詰まった部屋を離れるのは、
かなりきつかった。

でも、いつまでも風呂に立ち入れないままでいるわけにはいかなかったし、
なにより、何かを変えなければ僕達はきっと、いつか、同じ場所で……死んでしまう気がした。

それは希望というよりは賭けに近かった。
実際、新しい家はすぐにすべてを良くしてくれたわけじゃない。
慣れない家で大切な思い出を抱えて生きるのは、難しいことだった。

……それでも、大きな窓から差し込む光は、僕達の塞ぎ込んだ気持ちをほんの少しだけ、あたためて……和らげてくれた。
ガレージのおかげで、ひとみんは在宅で仕事ができるようになって。
家の中には常に、お互いの気配があった。

それが、思っていた以上に効いたのだった。多分。おそらくは。
傷が癒えたわけではなかったんだろうけれど、傷を直視し続けなくて済む時間が、少しずつだけれど、増えていった。

それが、この先もずっと続く保証はどこにもなかったし……
また突然、息ができなくなり、耐え難い痛みが襲ってくる日々が戻ってくるかもしれない。
夜が怖くなることも、何もかも投げ出したくなることも、
きっと、なくなることはないのだと思う。

それでも……
少なくとも今は、この家には光が入って、
隣には、同じ痛みを知っている人がいる。

それだけで、
「今日で終わらせる決断をせずに、とりあえず、明日へと、持ち越す」
そんな、耐える理由になった。

幾一のことを忘れたわけじゃない。
あの夜のことも、胸の奥に残った棘も、彼がのこした温かさも
夏の陽射しのように、鮮やかに、心の中に差している。

それでも僕は、終わらせる代わりに……
もう少しだけ、生きてみることを選んだ。
この胸の中に、幾一がいること。
それだけは、あの世や魂よりも確かで、間違いのないことだったから。

それが、今の僕たちにできる、精一杯の答えだった。