目が覚めてからは、慌ただしく時間が過ぎ去っていった。
身体のさまざまな検査をして、
すっかり衰えた身体のリハビリをして。
気持ちが安定するようなお薬を出してもらって、
そうしてようやく家に帰れたのが、今日だった。
久々の我が家は、薄暗くて、静かで、少しだけ湿ったような匂いがした。
これは空気が動いていなかった匂いだ。
人が、ずっと同じ場所で息を詰めていたみたいな匂い。
2つ並んだ靴と、まだ捨てられずにいる少しだけ大きな靴を越えて、部屋の中に入ってみれば、
そこかしこに脱ぎ捨てられた服や、空になった酒の缶でひどく散らかっていた。
いつもならひとみんが、綺麗に、快適に過ごせるように整えてくれていた部屋だ。それが今、ひどく荒れてしまっていた。
僕は床に転がっている缶の数を、数えてしまわないように視線を外す。
それでも、自然と目に入ってしまう。
ああ……、と胸の奥で響いて、痛む。
わかってしまった痛み。
僕が眠っている間。
もう2度と、目を覚まさないかもしれないと言われていた間。
ここで、ひとみんは一人きりだったんだ。
少しだけの沈黙。
お互いに、同じものを見ているのが分かる。
「悪ぃ……すぐ片付けるから」
ひとみんは、少しバツの悪そうな顔でそう言った。
言い訳するみたいな声だった。
僕は、ゆっくり首を横に振る。
「今日はもう……疲れちゃったから……
明日にしよ?」
なるべく、いつも通りの明るさで。
なるべく、責めていない声で。
だってこれは、だらしなさなんかじゃない。
逃げ場が、これしかなかった痕跡だ。
僕がいない間、
帰ってくるかわからない人を、待つために……
ひとみんが必死に耐えた証拠だ。
それを今、片付けさせるわけにはいかなかった。
それから、ずっと開けられていなかったカーテンを、僕は開ける。
外の光が、ゆっくりと部屋に流れ込む。
散らかった床も、空の缶も、
全部まとめて、西日に照らされて、晒される。
「……おかえり」
そう言われた気がして、
胸の奥が、少しだけ、あたたかくなった。
日が暮れれば、一緒に簡単な晩御飯を食べて。
僕がいつ戻ってきてもいいように、たくさん買い置きしてくれていた大好物のいちごを2人でたべて……
帰るのが遅くなってしまったから、いくつかは傷んでしまっていて。
それらはいちごミルクにして飲み干して。
そうしてようやく、帰ってきた実感がわいた。
それから、風呂場に行くのはまだ怖くて。
今日は、入らないことにした。
明日、朝にでも銭湯に行こうと、約束をして。
歯を磨いて、灯りを落として。
夜の支度を、ひとつずつ終わらせる。
かつて当たり前だったはずの動作が、どれも少しだけ特別になる。
それはいい意味でも、悪い意味でも。
僕等を少しだけ、慎重に、丁寧にした。
先に布団に入ったのは、どちらだっただろう。
気づけば、同じ布団の中に並んでいた。
ひとみんは、何も言わない。
でも、身体が少しだけ強張っているのがわかる。
呼吸が浅くて、一定じゃない。
……また、目を覚まさなかったら。
そんな考えが、胸の奥にあるのだと、
言われなくても伝わってきた。
僕のほうも、怖くなかったわけじゃない。
目を閉じたら、あの白い世界に、また引き戻されてしまうんじゃないか。
今度こそ、帰れなくなるんじゃないか。
布団の中で、ほんの少し身じろぐ。
その拍子に、指先が触れた。
あたたかい、ひとみんの手だ。
確かめるみたいに、そっと指を絡めると、すぐに、握り返される。
逃がさないように、強く。でも、痛くならないくらいの力で。
それだけで、胸の奥にあった不安が……少しずつ、形を変えていく。
「……だいじょうぶだよ」
小さな声で、そう囁いた。
それはひとみんへ、そして、自分へと言い聞かせるような声で。
「……ん」
短く帰ってきた返事と、握られた手に、ほんの少し力がこもる。
僕はその繋がれた手と…… 指に縫われたお揃いの赤い色の糸を、目を細めて見つめていた。
大丈夫、この手を繋いでいれば……
きっと、ここに……新しい朝に、戻ってこられる。
この手があるなら、
明日も、ちゃんと来る。
そう信じること。
自分と、ひとみんを信じることを、心に縫い止める。
目を閉じる。
自然と呼吸が緩やかになるのを感じて。
ひとみんの呼吸も、深く、長くなっているのを聴いて。
ひとつの布団の中で、
二人分の体温が、ゆっくりと溶けていく。
離れないように、
忘れてしまわないように。
繋いだ手を、ほどかないまま。
また、明日が来る。
そう信じて、
僕たちは、ゆっくりと意識を手放したのだった。