白い世界が溶けて消えて、僕はまた、夢を見ていた。
それは、今までのことが全部、夢だったんだと。逆にそう思える程の、深い眠りだった。
──
雨が降っている音が聞こえた。
パタパタ、ポツポツと、どこか楽しそうに跳ねる音。
その音に呼ばれるみたいに、
薄っすらと目をひらく。
目は開いているはずなのに、世界は真っ暗で。
ああ、まだ夜中なんだ、と遅れて理解する。
青を、何度も重ね塗りしたみたいな黒の世界。
その奥に、朧気に――
ひとりの姿が、浮かび上がってきた。
「きーち……眠れないの?」
時間は分からない。
でも、随分と遅い時間だということだけは、体が覚えていた。
声をかければ、表情は見えなかったけれど、
幾一はすぐにこちらに気づいて、そっと頭を撫でてくれる。
あたたかい手のひら。
髪の毛をすべり、やわらかに額に触れて、また戻ってくる。
優しくて安心できる、感触。
その手に包まれているうちに、
僕はまた、眠りの淵へ引き戻されていく。
しばらくの間、言葉はなかった。
ただ、雨の音と、彼の呼吸と、撫でる手だけ。
やがて、名残惜しそうに、その手が離れていく。
「ちゃたは、生きてな」
幾一の声が、落ちてくる。
へんなの、と思った。
死なないよ、僕は。
今のところ健康だし、危ないこともしない。
そんなこと、言われるまでもないのに。
それに、もうひとつ。
幾一は、僕にお願い事なんて、しない人だった。
──ちゃたが自由なら、それでいい
──ちゃたがすることで嫌なことなんて、なにひとつないよ
なにも求められなすぎて不安になるたび、何度も何度も、そう言ってくれた。
だからこれは、初めての、彼からのお願いだった。
「死なないよ。なんでもするよ」
幾一がしてほしいことなら、なんだって。
そう思うのは、当たり前のことだった。
それを聞いて、
納得したみたいに、幾一は小さく頷く。
そして、僕の布団を、ゆっくりとかけ直した。
「今日はもう、遅いから」
ぽん、ぽん、と。
子どもを寝かしつけるみたいに、軽く叩いて。
「うん……またあした、だね」
言葉が溶けていく。
眠りが、戻ってくる。
返事は、なかった。
「きーち、大好き」
意識が落ちきる、その直前。
辛うじて、言葉を手繰り寄せる。
彼の姿が、瞼の暗闇に溶けていくのを、
言葉で、繋ぎ止めるみたいに。
「うん。大好きだ」
そう、返事があった。
だから僕は、安心して意識を手放した。
いつもと変わらない。
本当に、なんでもない、
そんな夜更けだった。
──次の日。
目を覚ました僕が見たのは、
浴槽に、顔まで沈めたまま、
もう動かなくなっている彼の姿だった。
──────
────
──頬を伝う、冷たい感触で目を覚ます。
涙だ、と気づくまでに少し時間がかかった。
瞼を持ち上げると、白すぎる天井が視界に流れ込んでくる。
まぶしい。
痛い。
息が、浅い。
腕に違和感があって、視線を落とす。
透明な管と、点滴のパック。
動かそうとすると、身体がうまく言うことをきかない。
……生きてる。
遅れて、そう実感する。
手のひらに、あたたかい感触があった。
反射みたいに指を動かすと、ぎゅっと握り返される。
そちらを見ると、ひとみんが、いた。
目を見開いて、
今にも壊れてしまいそうな顔で、こちらを見ている。
その瞳が、ゆっくり歪んで、
次の瞬間、ぼろぼろと涙をこぼした。
絞り出したような、掠れた声で、何度も、何度も僕の名前を呼んでいる。
……あぁ。
なんて、酷い顔をしているんだろう。
さっきまで夢で見ていた僕より、ずっと。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……おはよう。ひとみん……」
声は思ったより、ちゃんと出た。
その瞬間、
白い世界も、雨の音も、
全部、遠くへ押し戻されていく。
彼が最期に残したトイカケ。
「生きてな」という、たったひとつのお願い。
その答えを、今度こそ、離さないように。
ひとみんに手を引かれながら、
僕は、現実の世界へ、
ちゃんと、帰ってきたのだった。