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のつづき
───────────
病室のドアが、控えめにノックされる音。
乾いたその音が、やけに遠く聞こえた。
「……」
ひとみんが返事をする前に、ドアは静かに開いた。
白い廊下の光が、細い帯になって病室へ差し込む。
先程“トイカケ”をしてきた主治医が、そこに立っていた。
上着の裾は揺れもせず、まるで最初からここに居たみたいに自然で。
いつから聞いていたのかは、わからない。
叫びの最初からか、途中からか、それとも――全部か。
「……全部、聞こえてたよ」
責めるでもなく、驚くでもなく。
ただ、事実を事実として置く声。
ひとみんは、息を詰めたまま動けなかった。
喉の奥がひくりと震えて、呼吸の仕方を一瞬、忘れる。
主治医は一歩だけ中に入って、背中でドアを閉める。
それ以上は近づかない。その距離が、妙にありがたかったかもしれない。
「叫ぶのも、無理はないから。大丈夫」
その言葉は、慰めというより、許可みたいだった。
泣いてもいい、壊れてもいい、と言われたような。
少し間を置いてから、主治医は続ける。
「さっきの話、いじわるだったよね
ごめんね、わざとだよ。
でも……キミが“どうしても譲れないライン”を持っているか、知りたかった」
視線は穏やかで、でも逸らさない。
逃げ場はないけれど、追い詰められている感じもしなかった。
「……忘れたくない、よね。そうだと、おもった」
ひとみんの喉が、ひくりと鳴る。
声にしなくても、もう全部、見抜かれている気がした。
「わかった。
キミの意思は、尊重するよ」
淡々としたその言葉が、胸の奥に沈む。
軽くも、優しくもない。
だからこそ、逃げられない重さがあった。
「茶太郎とキミ、二人とも。
記憶を消す処置はしない」
一瞬、視界が揺れる。
張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
でも、主治医はすぐに続けた。
「……ただし。
それを選ぶ場合の“代償”は、知っておいてね」
声の調子が、ほんのわずか低くなる。
空気が、静かに引き締まる。
「まず、苦しみは長引くよ。
今感じている痛みが、自然に薄れる保証はない」
「フラッシュバック、自己否定、睡眠障害。
場合によっては、罪悪感が“生きている限り続く”こともある」
淡々と並べられる言葉は、刃物みたいに正確だった。
ひとみんは、ひとつひとつを胸の中で受け止める。
「茶太郎が目を覚ましたあと、
“なぜ自分だけが生きているのか”という問いに、何度も囚われる可能性も高い
何度も、繰り返し……突発的な気分の乱高下で、死ぬのを試みる事だってある」
その言葉に、心臓が強く脈打つ。
想像が、勝手に映像を作ってしまうのを必死で抑える。
浅くなる息を整えるように、深呼吸。
「キミも同じ。
彼を支えるつもりが、逆に共倒れになるケースも、正直少なくない」
それでも、主治医は目を逸らさない。
優しさで包むことも、希望で誤魔化すこともしない。
「それから……
時間が経つほど、記憶は“美化”される」
ひとみんを見る。
「つらかった部分より、
失った温度や、幸福だった断片だけが強く残る」
「それは、回復を遅らせる要因にもなる」
沈黙が落ちる。
茶太郎に繋がれた人工呼吸器の音だけが響く。
「……ここまで聞いても、
それでも忘れない、と言えるかな」
試すようでいて、試してはいない問い。
答えを急かさず、ただそこに置かれる。
主治医は、ひとみんの沈黙を遮らずに待つ。
やがて、小さく息を吐いた。
「……キミの言う通りだよ」
視線を伏せる。
「記憶を消すことは、確かに“楽”だ。
でも、それは必ずしも“愛情”とは限らない」
「彼が生きて、誰かと確かに関係を結んで、
その結果として死んだという事実を……
なかったことにする行為でもある」
ほんのわずか、声が柔らぐ。
「キミがそれを拒んだのは、
エゴだと切り捨てるほど、単純じゃない」
主治医は上着のポケットに手を入れながら、続ける。
「だから、こうしよう」
「記憶は消さない。
しまい込む処置も、本人の明確な希望が出るまで行わない」
「その代わり、
“苦しみと一緒に生きる前提”で、支援を組み直すよ」
目を上げる。重たい前髪が、ほんの少し揺れる。
「楽な道ではないよ。
何度も、後悔すると思うし」
一拍置いて。
「それでもキミは、
“覚えていること”を選んだ」
「……それは、立派な選択だよ」
最後に、少しだけ声を低くして。
「ただ一つ、約束してほしい」
「一人で背負わないこと。
“弔う役目を独占しないこと”」
静かに、しかし強く。
「彼の存在証明は、
キミ一人が潰れてまで守るものじゃない」
その言葉が、胸の奥に残る。
そして、主治医はふっと表情を変えた。
仕事の顔から、どこか"術者"の顔へ。
「それが守れるなら、ひとつだけ、彼が目覚めるための手助けをしよう」
主治医は、指先で赤い糸を張る。
光を吸うような、深い赤。
血の色に似ているのに、不思議と生々しさはなくて、どこか儀式めいていた。
「これはね、強く縁を結ぶ効果があるんだ」
そう言いながら、主治医は茶太郎の手を取り、薬指に視線を落とす。
まるで、最初からそこに“はめるもの”が決まっていたみたいに、迷いがない。
薬指。
理由も説明もいらない指。
誓いを預けるために、人が勝手に意味を与え続けてきた場所。
針が皮膚に触れ、赤い糸が一周、二周と重なっていく。
縫い上げられていくそれは、装飾というより――封印に近かった。
指輪のようだと、誰しもおもっただろう。
主治医はひとみんの視線に気が付き、一瞬だけ笑って
「そういう風に見えるなら、それでいいよ」
次に、ひとみんの左手が取られる。
指先に伝わる体温が、やけに現実的で、逃げ場がなかった。
「あくまで“仮の結び”だ」
そう言われても。
その言葉は、安心にはならなかった。
仮。
切れる。
いつでも、終わらせられる。
――それなのに。
針が、ひとみんの薬指の根本に触れた瞬間、
胸の奥が、きゅっと縮む。
鋭い痛み。
でも、それ以上に。
これは"誓い"だと、思わされる。
誰にも祝福されていない。
書類も、言葉も、未来の約束もない。
それでも。
この赤い糸は、
「忘れない」
「置いていかない」
「苦しんでも、切らない」
そういう約束を、勝手に形にしてしまっている。
縫い上がっていく糸は、まるで指輪みたいに、ぴたりと収まる。
きつくもなく、緩くもなく。
“ここだ”としか言えない場所に。
「終わったら、切ればいいからね」
主治医の声は軽い。
でも、ひとみんは知っている。
これを切るときは、
きっと“終わった”ときじゃない。
――手放すと、決めたときだ。
ひとみんは、そっと指を握る。
茶太郎の手と、自分の手。
赤い糸が、同じ位置で光っている。
指輪みたいだ。
いいや、指輪そのものだ。
結婚でも、恋人でも、制度でもない。
それでも。
「……離れない」
声に出さなくても、
この糸は、もうそう言ってしまっている。
誰にも見せない誓い。
祝われない指輪。
それでも、確かに“結ばれている”証。
主治医は、その様子を見て、少しだけ目を細めた。
「……強い縁だね」
楽しげでもあり、少しだけ慎重でもある声で。
「切るまで、効くよ。
夢の中でも、白い部屋でも」
それは、希望であり、呪いでもある言葉だった。
ひとみんは、赤い糸を見つめたまま、静かに息を吸う。
結婚指輪なんかより、よっぽど、重い。
その赤い糸を見つめながら。
「見つからなかったら……壁でも叩いてみたらどうかな
あるいは、さっきみたいに叫んでみるとかね
壁のむこうにまで、ばっちり聞こえてたよ ふふ」
そうやって、主治医は少しだけからかうようにして。
満足そうに――
それが、治療の結果に対してなのか、
選択そのものに対してなのかは、分からないまま。
そうして、出ていった。