「………」
医者がいなくなった病室で、わたしは一人酷く苦しんでいた。

ひとみん
「なんっ、で………」
医者から提示された、苦しみの終わり。
それはまるで、私を試すような、逆に苦しめるような。そんな、そんな話。
それは………記憶を消す、またはしまいこむこと、だった。
………そうした方が良いのかもしれない。
そうした方が幸せなのかもしれない。
でも、わたしは………

ひとみん
「そんなの……彼が、私たちと生きて、死んだことを………っ、存在を、否定するようなもんじゃないか………っ」
涙が、溢れる。声が、漏れる。
それが、一種の救いの道であることは、理解できる。
けれども、彼の記憶を私たちから消すと言うのは、私たちと生きた彼の人生そのものを、消してしまうのも同じようなもので。
しまうだけという手段もあるのも、わかってはいるけれど、私はそれがどうしても許せなくて。
もう、どうしたら良いかわからない。茶太郎は、たぶん、忘れたくはないとも思うだろう。でも、そんな中で、こんなことなら、と、苦しみを終わらせたいとも思うだろう。
なら、わたしは?
………忘れたく、ない。
茶太郎は、どうしたいかはわからない。正直、私が選ぶべきではないとは、思っている。
それに、彼が忘れる選択肢をしたところで。私まで忘れてしまったら、彼が居たと言う存在証明は、誰がするの?

ひとみん
「う、ぅ………」
その選択に、するべきかしないべきか。
それぞれ真逆の、色んな感情が押し寄せてきて、押し潰れそうになる心を、何とか支える。
だって、私と居た時の茶太郎も幸せそうだったけど。
彼と居た時はそれ以上に幸せそうで。
そりゃあもちろん、最初は色々疑った。でも、打ち解けて行くうちに、彼の愛の形や、人との接し方なんかも分かってきて。
それが、彼の愛だと気づいた。
わたしは、時には邪魔だったかもしれない。逆に、私の方が迷惑を被ったかもしれない。でも、それでも、幸せそうな、そんな顔が見られて、嬉しかったのに。
それを、忘れさせて、ゼロに戻すの?
医者は、彼は、戻せるところまで戻してあげるのも愛情だと言った。
でも、それって、本当に愛情、なの?
私のエゴなんかじゃ、ないの?
私は、やっぱりどうしようもなくそれが嫌で。
しまいこんでしまえば、思い出せることもわかってはいるけど、やっぱりなんだか、それも嫌で。
でも、彼は、茶太郎は、苦しみから解放してあげないといけない気も、していて。
確かに、あの頃は、それはそれでお互いに姉弟のように楽しく、満たされて過ごしていた。私は、あれだけでも幸せだった。
そこまで戻す?私と、彼を?
医者としては多分、精神的にも、いつまでも彼のことを引きずり続けるのも、よくないと。
でも、でも。そうしたら、彼を思い出したり………弔う人は?
彼は、親からも見捨てられていると。彼は、思い出してくれる人が必ずいるかどうかなんて、私達には分かったものじゃない。
じゃあ、確実に覚えていられる私が、するべきなんじゃないか?
これが、私のわがままなのは、わかっている。
今も、眠りの中で苦しんでいるのか、それすらもわからないまま茶太郎を見て。
彼にはどうしてあげるべきなのか、私は答えが出せないままで一人、病室で呻き続けて。

ひとみん
「い…やだ…、嫌だぁ…!!私は、私は、忘れたくない!!!これで恨まれようがッ、なんだろうが!!私は忘れたくない!!」
止まらない感情の波を吐き出すように、誰も聞いていないだろう、病室の中で叫ぶ。
お静かに、と言われていたのに、荒く波立った感情は、止まってくれなくて。
…じゃあ、茶太郎は?

ひとみん
「私が、私がお前の記憶のことを選ぶべきじゃないのは…わかって、わかってる、でも、でもお前は、今の苦しみよりも、幸せな、あの日までの記憶すら忘れてしまったら、きっと、きっと茶太郎は、今以上に苦しむ、お前は、私の知ってるお前は、そんなヤツだった…!!」
そんなの、わからない。だって、深くても、他人だもの。
これが、私のエゴであることはわかっている。
もちろん、本人が…茶太郎が、忘れたいと。苦しみから解放されたいと、願ったら。
それは、私の選択ではなく、彼の選択。私が何か意見する権利は、ない。

ひとみん
「なあ、茶太郎。…お前は、…どうしたい…?」
返事がないことは分かりきった、力の抜けた問いかけ。
今ここで忘れさせる選択は、私には取れなかった。