「……起きないね」
人工呼吸器の規則正しい音の中で、主治医が淡々とそう言った。
まるで天気の話でもするみたいに。
それは、雨、止まないね。と、まったく同じリズムだった。
「たまにね、反応はあるんだけど」
慰めるつもりなのか、事実を並べているだけなのか、判別のつかない声だった。
茶太郎の同居人―― 瞳 は、ベッドの脇で俯いたまま動かない。
手は茶太郎のシーツを掴んだまま、指先だけが白くなっている。
主治医は一拍おいて、穏やかに続けた。
「……ひとつ、選択肢があるんだ」
逃げ場を与えるみたいな言い方だった。
けれど、それが“選択肢”である必要は、本当はどこにもなかった。
「記憶を消すことができる。
完全に消すか、触れられない場所に仕舞うかは選べる」
瞳の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「もちろん、対象は茶太郎だけじゃない。
……キミもだ」
主治医は、瞳の反応を確かめるように視線を落とす。
「そしたらね」
声が、やけに優しくなる。
「苦しいのも、辛いのも、終わる」
「選ばなかった記憶に、これ以上、責任を持たなくてよくなる」
一瞬の沈黙。
「それに――」
主治医は、決定打のように言葉を置いた。
「キミだけの茶太郎、が戻ってくるよ」
瞳の瞳孔が、わずかに開く。
「幾一くんと出会う前。
二人で暮らしていた頃だ」
責める調子ではない。
ただ、知っていることを確認するみたいな声音。
「その頃は、その頃で……満たされて、幸せだったんじゃないかな」
主治医はそう言って、首を傾げる。
「間に割って入った、なんて言わないよ。
でもさ」
一歩、ベッドに近づく。
「今の茶太郎を、このまま“共有”し続ける意味って、あるのかな」
瞳の顔を、覗き込む。
「このまま、目を覚まさないかもしれない」
「目を覚ましても……今までと同じ茶太郎かどうかは、わからない」
逃げ道は、もう一つしか残っていない。
「だったら」
「戻せるところまで、戻してあげるのも、愛情じゃないかな」
答えを急かすことはしない。
ただ、優しく、逃げ場を削る。
「考えておいて」
「キミが、どの茶太郎と生きたいか」
主治医はそう言って、静かにカーテンを引いた。