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記録者: 早瀬 颯切 (ENo. 54)
Version: 2 | 確定日時: 2025-12-31 04:00:00

あの日の自分はもう死んだ。
あの人のためなら今の自分の命を投げ打ってもいい。

そう、大人になるとは諦めることで、
弱肉強食の世、負け犬が諦めきった中で
ただひとつだけ諦めが悪いものがあるだけの話。
これは、皮肉屋の鬼蜻蛉の、どうでもいい昔話でしかないもの。





前も碌に見ず、必死で駆けた。
もつれる足を転べば終わる、止まれば終わると
緊張の糸を張ったままに、
今居る場所が何処かも考えられないほどにただひたすらに逃げた。

追手は、何も喋らない。
何も、感情なんて見せない。
これだけこちらが泣きそうでも、
これだけこちらが必死でも、
子供ひとりに大人数人で追い回すのは、
ある種異常でありながら「当然のこと」でもあった。

逃げる子供は、鬼蜻蛉。
たとえ今はうまく翔べずとも、いやそんな今だからこそ
"首輪をつける好機"など、今このときくらい。
あいつらも成長した捕食者に牙を剥かれるなんて、
たまったもんじゃないだろう。
そんな事、俺が知ったのは相当後だし
知ったとて飲み込めなんざしないんですけど。


まあ、無理のありすぎる話であることは自明の理。
ついに体力尽きて、子供ガキはその場に転げ込んだ。
大人数人の手が伸びる。
自分を捕まえようとする意味なんてわからないが、
ただただ怯えていた。無力である、そのくらいしかできない。
そのときだった。

「――何をしてる!?」

大きく、凛と張り上げた声が響いた。
耳があまり聞こえない子供おれにだって、
よおく今でも脳裏に残るほどに、強く、怒気をはらんで。
「大人数人で子供ひとり追い回して、
 あなたがたは恥ずかしくはないのか!」

立ち上がれないままに、声のほうをなんとか見上げた。
暮れ始めた黄昏の空、陽炎揺らぐ炎天の下。
緑色の胴着と髪に、黒い瞳の少年が偃月刀を手に仁王立ちしていた。
黒色はその額にももう三つ。背には夕焼けに透ける翅。
蝉の種のいずれか、だろうか。


大人たちどころか当時の俺よりも小柄であるのに、
一歩も譲らんとばかりのその姿は
この場のなによりも、どれよりも大きく見えた。
少年の姿を認め、数人の大人たちは顔を見合わせ
少年に向け頭を下げ、「申し訳ございません」と。
それにまた少年は目つきを険しくする。
「あなたがたの謝る相手は、俺ではないと思うが」

そう言われてようやくだ。
謝罪の言葉が俺に向いたのは。
……助け起こそうとする手は、大人どものものは
もれなく振り払っておいた。

「……すまない。余計なことだっただろうか」

そそくさと輩が去っていく。
それを忌々しそうに見送ったあとだ。
そう言って、少年も俺に手を差し伸べてきた。
しばらく、地面に伏したままただ相手の動向を伺う。
本気でそう言っているなどと、信じて良いかもわからなかったのだから。
「だがどうしても、放っておけなかった。
 自分で、立ち上がれるか?
 もしかして怪我でも」

眉の下がった顔をしたそいつにそこまで言われて、仕方なく。
無言で手を取った。
変に気を回されすぎるよりは、手を取るほうが全然マシだ。
それだけでいい。
それだけで、"またいつも"に戻るなら関係ない。
「ありがとう」

そいつは笑った。
なにが嬉しいというのか。
武器を持っていること、衣服の仕立てが上等な事。
なるほど恵まれているから余裕があるだけか。
只の、傲慢というわけだ。
「君……このあたりで見たことのない顔だな。
 よければ、名前を教えてほしいんだが」

いつもだったら、無言を貫いただろう。
ただ、目の前のそいつがいかにも平和ボケしていて
"名前を教えてほしい"なんて
俺に「また今度」があるような言い方をするから、つい。
『……スイ

残そうと思った。
恵まれて、今後も生きていく奴のなかに
死にゆくだろう俺の存在を、残してやろうと思った。
どうせすぐに忘れられるだろうけれど。世の中そんなものだ。
「……翠!良い名前だな。
 君の瞳の色によく似合う名だ」

案の定、能天気は嬉しそうに笑った。
俺が何を考えてるかなんて、知らないで。
そのあと少しだけ会話を交わして、
別れた後俺がどういう目に遭ったかも、

知らないで。
いや、
今思えば知らないでいい。
彼のあずかり知らぬところで「翠」は結局死んだのだから。
あの能天気がそれを知れば、きっと阿呆みたいに悲しむから。

これで、いい。

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「そうでしょう、大佐?」

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「いきなりなんだ?早瀬」

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「いいえ別にぃ?」


そう、これでいい。
奇縁は、それでも続いていたとたった数年前知った。

だから俺はあんたを、俺がどうなろうと影で守ろう。
ほかならぬあんたこそが
あんた自身忘れていようとあの日の俺を知るただひとり。
"早瀬颯切"軍人としての偽名野郎が死のうと、あんたという命の隅の隅、切れ端に"翠"本当の俺を生かす。それだけ。