◆時折、山の麓に来る
村では、霊峰に住む竜ウロボロスの話が昔から語られていた。
だが、もうひとつの話を知る者は少ない。
ウロボロスは、ときどき山を下りてくる。
本当に、ごく
稀に。
吹雪が始まる前や、季節が変わる
境目の穏やかな夜に。
◆1.目撃者の話

「夕暮れ時に川のほとりを歩いていてな……
黒髪の美しい男を見たんだ。
背が高くて、影が揺らめいてて……」

「普通の旅人じゃないのか?」

「いや……あれは人じゃない。
俺が声をかけようとしたら、目が蒼く光ったんだ。
気づいたらいなくなってた。」
別の老人がぼそりと付け加える。

「わしは朝方、鍬を直してくれてたのを見たぞ。
家の前に置いていたら、翌朝には新品みたいに
なっていた。」

「……ウロボロス様じゃろう」

「さあな。ただの善い旅人かもしれん」
酒場で、ごく小さな声で
囁かれる。
皆が笑うが、誰も確信はしていない。
ただ、噂は淡々と広がっていく。
◆2.痕跡
旅人──
雪深い
峰から帰ってきた本人だけは、ウロボロスだと確信していた。
ある晩、村の外れの道でふと見た影。
月に照らされた黒髪。
ひるがえった長い
外套。
竜の影がぱっと煌めいて、地面に現れた。
声をかけようとしたが、彼は旅人に気づくより早く姿を消した。
翌朝、村の鍛治場に置かれていた壊れた
鍬が、白い頂の山で見た
光景と同じで氷の青に染まった紋様で補強されていた。
ウロボロスの鍛冶だ。
彼がここに来ている。
だが、姿を見せる気はないらしい。

(……人間と竜の世界の境界に、彼はまだ立っているのだ)
◆3.独白
村から少し離れた森の中。
月明かりの下でウロボロスは片膝をつき、鍛冶で汚れた手を
川で洗っていた。

(……下界は、相変わらず賑やかだな。
人間は短命だが……。良くも悪く変わっていく)
胸の内でひそかに言葉を漏らす。
彼は川面に映った自分の顔を見つめる。
竜の気配を帯びた、美しい人の顔。
人の世界に混ざるには、あまりに異質。

(……あいつは、元気にしているだろうか。
達者でな、と言ったのに……。
会えば、話したくなるだろうな。)
旅人の顔が
脳裏に浮かび、ウロボロスは微かに目を細めた。
声には、竜としてではなくひとりの者としての寂しさが
滲んでいた。
◆4.村人に知られないまま
夜風が吹く。
ウロボロスは立ち上がり、
外套を
翻して高くそびえる白い峰の方へ
歩き出した。人間の灯りのある場所へは近寄らずに。
村の生活を向こうから見守るだけ。

(……もう争いは起きない。
ナハトムジークも、しばらくは落ち着いているだろう。
今日は引き上げるか)
深い藍の瞳が1度だけ村を振り返る。
冷えた気配とともに、ウロボロスは白景へ溶けていった。
村人は姿に気づかない。
旅人さえも、確信を持てずにいる。
伝承と噂だけが、村にしんしんと積もってゆく。
“深雪の山に棲むウロボロスは、ときどき
麓に降りてくる。
争いを望まず、人を助けるためだけに。”
◆5.夜の道で出会った子ども
村は霧が濃く、灯りの火がいつもより小さかった。
外へ出る者はほとんどいない。
ただひとり、小さな影が村の外れへと走っていた。
少年は、片腕に抱えた壊れた木製の
玩具の剣を握りしめ、
暗い道を涙目で急いでいた。

「……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
友達と喧嘩して壊してしまい、
どうにか直そうと鍛治場へ向かう途中だった。
だが、夜道は冷たく、心細い。
霧の向こうで青い光が揺れた。
少年は足を止める。
月明かりの代わりに、淡い氷青の光が霧を
透かして近づいてくる。

(……なんだろう……?)
怖さよりも好奇心が勝り、少年は一歩踏み出した。
目の前に現れた樹氷を見て、言葉を失う。
黒髪に深雪を宿した長身の男。肩や首元には鱗の光がちらりと覗く。
風に揺れる影は、竜の形に変わる。
蒼く輝く瞳が少年を見た。
ウロボロスだった。
彼もまた驚き、まばたきをする。

「……こんな時間に、子供が外を歩くべきではないぞ」
声は穏やかだが、凛としている。
少年は震える声で答えた。

「……あ、あの……壊れちゃって……直しに……
鍛治屋さんに……」
手にした木の剣を差し出す。
ウロボロスは剣を見て、小さくため息をついた。

「ふむ。戦うための剣ではないな。──遊ぶための剣か」
少年はこくりと頷く。

「ともだちが……これ、すごく大事にしてて……
ぼくが折っちゃって……どうしようって……」
ウロボロスは膝をつき、少年の目の高さに視線を合わせた。
サファイア色の瞳は竜としての冷たさではなく
懐かしむ優しさを帯びていた。

「直してやればいい。
謝る勇気と、直す心があるなら……十分だ」
そう言って、ウロボロスは手を伸ばした。
鱗の入った指先が折れた木剣を軽くなぞると
淡い淡雪の光が指先に残り、ひび割れた部分がすっと繋がった。

「……わあっ……!」
新しい
玩具みたいに綺麗になった剣を、少年は抱きしめる。
ウロボロスは立ち上がり、少年に背を向けようとした。
だが、少年が小さく声をかける。

「あ、あの……あなた、竜さま……?」
ウロボロスはぴたっと動きを止めた。
しかし振り向かず、ひそやかに笑う。

「……さあ、どうだろうな。ただの鍛治士だと思っておけ」
霧の向こうへ歩き出す。薄雪色の光が遠ざかる。
少年は直った剣を抱いたまま、いつまでも背中を見つめていた。

「……ありがとう……竜さま……」
小さな声は、誰にも聞かれず忍んで夜に溶けた。
ウロボロスは、雪をまとった山々へ戻る途中、ふっと呟く。
嬉しそうで、少しだけ寂しい声だった。

「……子供は、正直だな」
◆6.灯火の外で
雪に沈む峰の
裾野の村では、年に1度だけ
冬の終わりを告げる祭りが開かれる。
色とりどりの
灯籠が風に揺れ、焚き火の匂いが夜空に昇り
子どもたちの笑い声が彼方まで響いた。
にぎやかな光景から離れた、山道の上の黒い岩の影。
ひっそりと腰掛ける影があった。
蒼い瞳を持つ竜人──ウロボロスである。
祭りの音を、遠くから音を立てずに聞いていた。
彼は村までほとんど降りない。
人間の前に姿を見せれば、驚かれるだろうし
無用な噂を増やしてしまう。
──せめて、この夜だけは。
ウロボロスは、祭りの花火を眺めるのが好きだった。

(……賑やかだな)
雪に座りながら、誰に向けるでもなく呟く。
村の中央では子どもたちが舞を披露し大人たちは酒を
酌み交わし、
娘が恋の占い札を手にして笑っている。
ほんの少しだけ、ウロボロスは人間の体温が羨ましく思える。

(……あの子供も、来ているのだろうな)
以前、夜道で出会った少年が、直してやった木剣を振り回して
友達と遊んでいる姿が見える。
少年は誰にともなく「竜さまに直してもらったんだ!」と言い、
大人たちは笑って聞き流しているようだった。
ウロボロスは、口元を
緩めた。

(……まだ言ってるのか。──まあ、いい)
尾を噛む竜の
循環する想い。
人間を恐れず、しかし近づきすぎもしない。
距離感が、ウロボロスには心地よかった。
ふと、足元に気配が寄る。
薄い氷を踏んだ影が、彼の横に現れた。
天井影──ウロボロスの半身の、漆黒の竜影だ。
影竜は声なき声で問いかける。

『……行かぬのか?人間の輪の中に』
ウロボロスは首を横に振る。
遠い祭りの光を見つめ、少し間を置いて続ける。

「俺があの中へ入ると……まあ、祭りが台無しになる。
……楽しそうにしているのを見るだけで満足だ。」

『本当に、よいのか』

「よい」
迷いはなかった。
ウロボロスはずっと長い時を生きてきた。
村が移り変わり人が生まれ、巣立ち、消えていったか知れない。
だが今の村は、争いもなく平穏で安らぎと共に
灯火を囲んでいる。
そっと見守るだけで、心が温かくなるのだ。
祭りの中心の焚き火が、ひときわ高く燃え上がった。
青白い火花が夜空に舞い、星と溶け合う。
ウロボロスの瞳もサファイア色でわずかに揺れた。

「……さて。もう少し見ていくか」
風が向こうの
峰々を抜け、彼の黒髪と長い耳を揺らしていく。
村の子ども達が笑って笛の音は鳴り響き、白い雨粒は舞い落ちる。
ウロボロスは遠くから見守り続けた。
心が満ちていくようだった。