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記録者: ニィルファ (ENo. 212)
Version: 2 | 確定日時: 2025-12-14 04:00:00

 旅人は振り返り、屋敷へと戻った。
 屋敷へ先ほどから気になっていた書斎へ向かうためだ。

 2階へ上がると、廊下の先に重厚じゅうこうな扉がある。
 手を伸ばし、ゆっくり開ける。

 青白い光を帯びた、広大な書斎。
 部屋の壁を埋め尽くす書棚に見たこともない文字が並ぶ。

 ウロボロスは「魔力を持たぬお前さんには何も起きん」と言ったが言葉は、
 半分だけ正しかった。
 旅人は慎重に歩みを進め静かに中へ入った。棚の隅で、そっと揺れが起きた。

 ──ぱさっ。

 1冊の本が、棚から落ちて床へ落ちたのだ。

 旅人は慌てて近づき、しゃがみこんで手を伸ばす。
 本の装丁そうていは青と銀。見覚えのない文様が浮き彫りになっている。
 
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(……呼んでいる……?)

 触れようと指を伸ばした。

 ──ひゅっ

 本が勝手にページをめくり始めた。

 風は吹いていない。
 魔力など使っていない。

 何かが反応したのだ。
 少し低くなった竜の声が、また耳に届く。

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「……本は、お前さんを選んだらしいな。恐れる必要はない。
 読めはしないだろうが……見ているだけなら害はない。
 ただし──
 本を開いたことは、ニィルファには言うな。必要以上に心配する。」

 旅人は返答が見つからず、胸の奥がざわついた。
 
 旅人は驚きと好奇心を抱えたまま、ゆっくり本を拾い上げた。
 ページから漂う青い光が、かすかに手を温める。
 凍った池の遺跡と同じ何かが宿っている。

 
◆◆◆

 旅人は、青い光を帯びた本をそっと開いた。

 目に飛び込んできたのは見慣れない文字。
 しかし旅人はなぜか、意味として理解していた。

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(……読める? いや、読んでいるのは……)

 見せられている。
 ページから青白い光が溢れ、旅人の視界はかすみ揺らぎ始めた。


 気がつけば、旅人は知らない戦場の上空にいた。

 冷えきった大地。裂けた岩肌。
 人間の軍勢が盾を構え、槍を突き立て、震えながら前線を維持している。

 こちらを見据える反対側、巨大な影が無数にうごめいた。

ドラゴン 

 ウロボロスと同じ鱗を持つ者たち。
 しかし表情は彼とは似ても似つかない。残酷で、誇り高く、絶対的な優位に酔っている。

 血と埃に包まれた戦場で、1人だけが踏み出し、視線を独り占めするかのようだった。
 長い黒髪を束ね、1本の細い剣を携えた男。瞳はひやりと凍りつく。
 ウロボロスにとてもよく似ていた。

 旅人の胸に、理解しづらい恐怖が湧く。

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(……まさか……)

 竜たちの軍が進むたび、空気が凍り、音が凍り、人間たちの悲鳴が凍る。
 竜人たちの動きは刹那、対して人間たちの動きは永遠に止まったままだった。

 勝負にならない。

 人間の軍は、蹂躙じゅうりんされるばかりだ。

 つららの槍が大地から噴き出し、人間たちを串刺しにする。
 風が、吹雪が、走り過ぎる霜の尾が兵士の肌や鎧を瞬時に凍りつかせ、砕いていく。
 遊戯おあそびのようだった。

 旅人は震え立つ。

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(ウロボロス……じゃないよな……でも、似すぎてる……)
 
 やがて、彼は空へ舞い上がった。
 黒髪の竜人が、周囲の竜たちよりも遥かに高く。
 巨大な竜へと姿を変えた。

 空の半分を覆い尽くす、蒼い瞳の竜。
 あごが開くや否や、冷えの暴流が暗闇を裂いて吹き荒れた──

 山を削り、大地を覆い、人間たちを問答無用で凍死させていく。
 光景はあまりにも冷酷で反撃の余地すらない。まさに、虐殺と呼ぶほかない光景だった。

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(信じられない……あの生き物が竜……?)

 旅人の心臓が冷えきる。身がすくみうまく吸えない。

 そのとき。

 ──ひゅっ。

 人間の1人が、竜の懐に飛び込み走り出した。

 全身血だらけの青年。
 手には、輝かしい光を放つ剣。
 竜は気づかない。
 圧倒的な存在ゆえに、近づく者など想定していない。

 青年は叫びもせず、跳び上がり──

 剣を、竜の胸部へ突き立てた。
 竜の巨体が大きくのけぞり、ぶ厚い鱗を砕きながら剣は深く入る。

 白い閃光が炸裂し、辺りを呑み込んだ。

 旅人は書斎で、はっと息を吸った。ひざがぶるぶると震えている。
 天井も床も回転しながら見える。
 本は静かに閉じ、旅人の膝の上に、存在を主張し居座った。

 手は凍りつくほど冷たかった。

 書斎の静寂を裂き、どこからともなく竜の声が聞こえた。
 影の竜はひと呼吸おき、低くささやく。

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「過ぎた昔話だ。忘れられた戦争の記憶。ニィルファかどうか……
 判断できまい。だが忠告する。
 本は、お前さんにだけ見せたのだ。……無闇に開くな。
 記憶は、深く、重い傷を持つ」

 旅人の胸はまだ冷えていた。
 ウロボロスの姿が脳裏に浮かぶ。穏やかな鍛治士は、あの竜と同じ存在なのか。

 心に芽生えた問いが、書斎の静寂に溶けていった。

 旅人が震える手で本を閉じたとき、──ぱちり、と音がした。
 意志を持ち、本がまた勝手に開く。

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「ま、待っ……!」

 だが声は届かず、青白い光が再び旅人の視界を覆う。
 気がついたとき、旅人はまた遠い世界に立っていた。

 しかし、さきほどの戦場とは違う。

 ここは巨大な都市だった。
 氷柱つららが林立し、空にいくつかの橋がかかっている。
 建物は竜の鱗の青い光沢を帯び、炎の香りは遠く、魔力と凍てつく空気が文明の核街並みを守っていた。

 だが──破壊されていた。

 崩れ落ちた塔。
 裂けた橋。
 凍りつく死体。

 銀雪に閉ざされた戦場の中心で、戦いが続いている。

 竜と、人間。

 まただ──
 旅人は目を見開く。

 今回、竜たちは氷ではなく、雷や風、炎を操る者も混ざっていた。

 だが、先頭を率いるのはひとり。
 黒髪をたばねた長身の竜人。
 そびえる姿は、またしてもウロボロスに、よく似ていた。

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(……嘘だろ……? 目の前の光景は、時代を超えている……?)

 竜人は軍勢の前で、冷静さを失わぬまま手をかざした。
 魔力が溢れ、空が震える。
 上空から凍結した針が雨の勢いで降り注ぐと、人間の軍は瞬く間に貫かれた。

 悲鳴よりも早く、命が散る。

 光景は変わる。

 今度は荒野。
 吹き荒れる砂の大地。

 竜人たちは空を飛び、人間たちは地を走り、巨大な戦車を引いている。
 しかし結果は同じだった。

 竜が先に動けば、戦は終わる。
 戦いの熱が最も高まる場所にはいつも、黒髪の竜人がいる。
 剣を振るい、魔力を操り、淡々と敵を排除していく。

 永遠とわとも思える針の中で戦い続けてきた者のように。
 
 さらに時代が進む。
 城壁が変わり、武器が変わり、服装も文化も、風景も変わる。

 だが──
 竜と人間の争いだけは、変わらない。

 何度も、繰り返し。
 いつの時代にも、竜は人間の脅威となり、人間は竜を恐れ、剣を取る。

 戦場の最前線にはウロボロスによく似た竜人がいた。

 どの時代でも。
 どの世界でも。

 戦い続ける黒髪の竜人。
 人間から見れば、天災の存在。

 旅人の胸が苦しくなる。

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(……本当にウロボロスなのか?それとも……同じ種族の別人?……わからない。でも──)

 不意に暗い響きを帯びた声が耳に飛び込んできた。

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「忘れるな。お前さんが体験したのは歴史の残滓──誰の記憶とも限らん。
 ひとつ確かなのは、竜と人間は、昔から相容れなかったことだ。
 何度、世界が変わってもな」

 頭の中が整理できず、目の前がぐらつく。

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「……ウロボロスが……戦いに関係しているのか?」

 問いはかすれた声になって漏れた。
 影の竜は静かに言う。

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「答えを急ぐな。見せられる記憶が、すべて真実とは限らん。」

 光がひときわ強く輝き、ページが閉じられる。
 旅人は書斎に戻っていた。呼吸が速く、胸が苦しい。

 
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(……ウロボロスは……)

 静かな鍛冶士と、戦場の竜とは、あまりにも姿が重なる。

 しかし──
 旅人にはまだ、確かめる勇気がない。
 本は机の上で、青い光を揺らし、『まだ終わりではない』余韻だけが、そっと残っていた。


◆◆◆


 吹雪は弱まっただけで、外界ではいまだ白い嵐が途切れず続いていた。

 旅人は迷った末に、鍛冶場へ向かった。胸の奥がざわつく。
 書物が見せた数々の戦場──
 ウロボロスに酷似した竜人が率いた戦いの記憶が、離れない。

 鍛冶場の扉を開くと、熱気と鉄の匂いが旅人を包んだ。
 ウロボロスは炉の赤光に照らされ、1本の剣を柔らかそうな布で拭っている。
 研ぎ澄まされた動作は、祈りを思わせるほどに静かで、美しかった。

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「……ウロボロス」

 旅人の声は震えていた。

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「聞きたいことが……あるんだ。」

 ウロボロスは顔だけ少し向けたが、手は止めない。

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「なんだ、お前さん」

 旅人は空気を呑み、ためらいを振り切り、足を踏み出した。

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「君は……昔……竜と人間の戦いに、関わっていたのか?」

 直後、ウロボロスはぴたりと止まり、心臓の鼓動が凍るほど静寂が訪れた。

 布がするりと指から落ちる。
 赤い炉の光に照らされた横顔は水晶の彫像のようで美しく、冷たかった。
 まばたきすら、忘れていて動かない。

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「本に……見たんだ。
 君にそっくりな竜人が、戦いの先頭に立って……。たくさんの人間が、氷で……。」

 驚きと戸惑いで言葉が固まってしまった。

 ウロボロスは、ゆっくりと旅人へ視線だけを向け、瞳の色は、濃く深い蒼を湛えていた。
 底知れず、ひどく静かで、氷海ひょうかいを思わせる冷えが漂っていた。

 しかし── 何も言わない。

 肯定も否定も。怒りも悲しみも、表情に出ない。
 沈黙だけが鍛冶場に降りてくる。

 旅人の喉が渇く。

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「……違うって、言ってほしいわけじゃない。知りたいんだ。君が……どんな存在なのか」

 ウロボロスは視線を落とし、手元の剣を見つめた。

 刃には、彼の蒼い瞳が映り込む。透明で、触れればすぐに崩れてしまいそうなほど脆く見えた。
 口元がわずかに動いたが、心の声にはならなかった。

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「…………」

 代わりに、ふっと息を吐き、剣を壁にかける。
 壁には、彼が作った数々の剣が梯子はしごみたいに連なって並んでいた。
 殺すためではなく、祈り願うための造形を持つ美術刀だった。

 柔らかな曲線、氷晶こおりの紋様。
 鋼でありながら、悲しげな美しさがある。

 旅人は気づいた。

 並んでいる剣は、戦いから離れた者が作る剣だ。もう振るわぬために作る剣だ。
 だからこそ、問いは重い。

 暗く黙った末、ウロボロスはやっと声を落とした。
 低く、遠く、凍った記憶の奥から響く声で。

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「…………過去を、冷たく閉ざしたはずだった。」

 旅人は息を呑む。
 ウロボロスは、何も言わない。

 否定ではない。
 肯定でもない。

 苦痛で重い沈黙だけが、彼を包んでいた。
 炉の火が弾ける音だけが響く。

 旅人は唇を固く閉じ、口をつぐむしかなかった。

 ウロボロスは、美しい彫像のように動かず、深く目を閉じた。
 仕草の端々に、深いひだをつくって幾重いくえにも畳み込んだ姿のようだった。


◆◆◆


 ウロボロスの固く閉じた唇が、鍛冶場の空気を凍らせていた。
 旅人は何も言えず、彼の横顔を見つめる。

 やがてウロボロスは目を開けた。
 瞳の奥は深く冷えていて追いつくには遠い。

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「……悪い。少し、外の空気を吸ってくる」

 声の響きだけを残して、ウロボロスはゆっくりと鍛冶場を出ていった。

 旅人は呼び止められなかった。
 扉が閉まる音が、胸の奥を重く響かせる。

 戻ってこないかもしれないと感じた重い黒ずんだ不安が胸の奥でじっと淀んでいる。

 旅人は急いで扉へ向かう。

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「……ウロボロス!」

 廊下に出たが、彼の気配は薄く、消えかけていた。
 青い屋敷の中に、静寂だけが残る。

 旅人は焦りに駆られ、階段を駆け降りた。
 冷気が、玄関のほうへ流れていく。

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(……外に出た? 吹きつける吹雪の中を?)

 あり得ない。
 しかしウロボロスならば、吹雪も意に介さないかもしれない──
 そんな考えが胸を冷たく締めつける。

 旅人は玄関扉を開いた。
 外は白の静寂に満たされて、視界はほとんど利かない。

 だが、雪の上に黒い足跡があった。
 深く、しっかりと刻まれた歩幅。
 冬に閉ざされた地の上でも歩ける爪の引っ掻き傷が残っている。

「……どこへ行くんだよ……」
 旅人は震える声でつぶやき、足跡を追って歩き出した。

 吹雪が肌を刺し、靴底が雪に沈む。

 足跡は屋敷の裏手へ続いている。
 畑の横を抜け、動物小屋の影をすり抜けながら、凍てついた池に近づいていった。

 遠くに、すくと立った長身の影が見えた。間違いなくウロボロスだ。
 彼は池の中央にある小島。遺跡の前に立っていた。

 吹雪の中、姿ははっきり見えない。
 だが背は高く、長い黒髪の束が風に揺れている。

 旅人は声を張った。

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「ウロボロス!どうして……!」

 声は吹雪に飲まれた。

 ウロボロスを振り返りながら見た。
 横顔は、水が凍り静かで、寂しい。

 旅人が白く固まった地面へ踏み出そうとしたとき、背後から影が揺らめいた。
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「行くのか?その道の先は……思っているより、ずっと寒いぞ」

 低くひびく声が耳に届き、竜が自分を引き止めていると感じさせた。

 旅人は振り向かず、答えた。

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「……あの人を、1人にしたくないんだ」

 寒気の渦が空を裂き、地の固まりが低く唸った。

 竜は小さくため息を漏らした。
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「ならば歩け。割れないうちに。俺が見ていよう」

 旅人は足を前へと運び、凍った池へ踏み入った。ウロボロスが待つ、小島へ向かって。

 
◆◆◆

 
 旅人が凍った池を渡りきる頃、空の白が薄く透けてゆく。
 遠くから見ていたウロボロスの背中は、人間離れした静けさを帯びていた。

 旅人が近づくと──
 ウロボロスの身体に、微かな揺らぎが起きた。
 黒髪がふわりと逆立ち、背中の影がうねる。

 右目のまわりに、花弁が開き軌跡で鱗が広がり始めた。
 顔の半分はまだ人の皮膚のままなのに、もう片側は革の質感を帯び、
 こぼれる吐息は白く凍りつく冷気をまとっている。
 同時に、左腕の皮膚が細かく裂け、下から黒く硬質な鱗が芽吹き浮かび上がる。
 指先はゆるやかに反り返り、鋭い鉤爪の形を取り始めていた。

 恐怖よりもむしろ、神秘の静けさをまとった変化だった。
 美しく、ひそやかに、世界の境界が次々と組み替わっていくのを感じた。

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(……ウロボロス……)

 彼は背を向けたまま、小さく吐気をこぼす。

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「……もうすぐ、吹雪は止む。
 お前さんを……帰さねばならない。」

 硬く冷えた表面をなぞり、低い声で呟いた。

 ゆっくりと振り返る。

 瞳孔の色は、深い蒼。
 竜の魔力の光を湛え、人間の心には触れる術がないほど冷たく、美しい。

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「もういいだろう?好奇心は満たしたはずだ」

 旅人は言葉を失う。ウロボロスの姿は、畏怖と悲しみを混ぜた存在だった。
 腕の鱗は微かに光り、足先が雪をかき分けるたび、硬く凍った地面が小さくきしむ。

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「遠い過去の話だ。お前さんが見たのは……ただの記憶にすぎない。
 もう誰も、傷つけはしない。俺は……そういう生き方を選んだ」

 ひとつ息を吐く。

 竜の耳が揺れ、尾の影だけが背後の雪上に伸びている。
 旅人は、胸が締めつけられる感覚に襲われた。

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「でも……ウロボロス。本当は……」

 彼は静かに首を振る。

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「もういいんだ。」

 短い言い回しの裏に人間の尺度では計り知れず、竜が幾度か古い殻を脱ぎ捨て新しい己として過ぎた時間が、静かに流れていた。

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「お前さんは帰れ。ここは、人間が長くいる場所ではない」

 ウロボロスは半竜の姿のまま、旅人から視線をそらす。
 剣を振るうたびに鍛えられ、筋肉が隆起する背中には、宿命を断とうとした者の静かな痛みがあった。

 風が止み、空に薄明かりが差し始める。

 帰れる。
 吹雪は終わりを迎えていた。

 ウロボロスが旅人に背を向けた途端、背筋に異様な感覚が走った。
 冷気が震え、雪面に裂けた黒がじわ、と広がった。

 旅人は思わず足を止める。

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「……え?」

 影がずしんと重く膨らんでいく。
 夜の深みが地に染み出し、真っ黒な闇が広がっていった。

 ウロボロスの動きが瞬く間に変化した。
 竜化した身体が旅人の前に飛び込み、鋭い爪が風を切って雪面を抉る。

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「──さっさと帰れ!
 ナハトムジークがお前を喰うぞ!!」

 鋭い、獣じみた怒声。

 旅人の目の前で、黒い巨大な竜の影が口を裂き、ゆっくりとこちらに向けて伸びてくる。

 物質ではない。
 だが確かに喰らうための口だった。

 
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(う、うそだ……影なのに……!)

 実体のない影は旅人の足元に黒い爪を落とし、空気を凍てつく圧力が襲う。
 ウロボロスが片腕で旅人を突き飛ばし、もう片腕の鱗に覆われた掌で影の顎を押さえ込んだ。

 じわっと広がった影はウロボロスの腕に噛みつこうとするが、竜化した彼はぐっと押し返す。
 旅人の方へ視線を投げる。
 蒼い瞳が鋭く光り、語気は容赦なく突き刺さった。

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「停戦協定はとうの昔に結んだ!俺はもう……自ら進んで人間と戦う理由はない!
 本当の真実を知っただけだ……なら忘れろ!」

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「ゴォオオオ……」

 黒い竜ナハトムジークが咆哮した。
 轟きは空には響かず、シミ・・に沈み、濁る。
 旅人は震えながら後ずさる。
 
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「空を飛んで帰るぞ!!」

 ウロボロスの背から竜の翼の影が広がり、実体を持ちながら冷気を噴き出す。
 腕に抱えられ、旅人は大気を震わせる翼の衝撃とともに、雪の山中から空高く舞い上がった。

 下では、取り残されたナハトムジークの黒いじっとりした影が、悔しげに雪上を這い、空を睨む。
 思考が追いつくや否や、旅人は理解した。
 ウロボロスは戦う意志を捨てた竜であり、良しとしない影が、昔の戦場へ引き戻そうとしているのだと。
 骨まで染みる冷風が顔を打ち、景色はあまりにも早く遠ざかっていく。

 ウロボロスの腕は冷たく、内側から熱がほとばしるような強さだった。

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「………ここは……人間が長く居ていい場所じゃない。」

 先ほどとは違う深い哀しみが滲んでいた。


◆◆◆

 雲を割って飛び出すと、冷たい風が全身を打ち付けた。
 ウロボロスの背に広がる竜翼に、ぱきっと嫌な音が響く。

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「……っ――!」

 旅人が身をすくませるより早く、ウロボロスの身体が勢いよく傾いた。

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「くそっ!!!
 飛ぶのは元々得意じゃないんだ……長距離なんざ、もっと苦手だ!!」

 氷を吐く声が風に散る。
 竜化した身体が急速に重くなり、風の流れに押されて失速していく。
 空が、地面が、ぐるりと回った。

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「落ちるぞ!!掴まれ!!」

 旅人は本能でウロボロスの首元の衣にしがみついた。
 腕の鱗は冷たいのに、どくんと心臓の鼓動の熱が伝わってくる。

 しかし、空気が震えた。

 後ろから黒い竜が飛んできた。
 ナハトムジーク。
 空にあるはずのない影だけでできた竜。

 影の口が旅人へとまっすぐ伸び、声もなく噛みつこうと襲いかかる。

 ウロボロスが振り返りざまに吠える。

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「来るな──ナハトムジーク!!こいつは関係ない!!」

 黒い影の竜の咆哮は無音。
 色すら奪う圧が空気を押しつぶした。

 旅人の目の前が白く弾け飛び、霞んだ。
 影が頭に触れた。記憶が引き抜かれようとしている。

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「……ぁ……っ!」

 思考が滑る。
 名前、形、屋敷、剣、書斎。すべてが霞んでいく。

 ウロボロスが必死に片腕で黒の顎を掴み、殴り払う。
 体のバランスを失い姿勢が完全に崩れ、二人の身体は空へ放り投げられた。

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「おいッ!!意識を保て!!まだ落ちてはいない!!」

 空を裂く風が吹き荒れた。雪山がどんどん近づく。

 ウロボロスが翼影を必死に広げ、地面に沿って滑ることで衝撃を吸収する。
 雪の斜面を転げ落ちながら冷たい岩をかろうじて避け、
 霜をまとった枝を折り散らしながら、勢いのまま山道の端へ滑り込んだ。
 雪と枝のざわめきが耳を刺し、胸が激しく跳ねる。

 旅人は強く咳き込む。
 ウロボロスは息を荒くして膝をついた。

 竜の腕が震えている。
 鱗がところどころ剥がれ、次々と再生しようとしている。

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「……はぁ……っ。無茶をする……ナハトムジークめ……」

 旅人の目にはまだ黒い竜がちらつく。
 記憶をこそぎ落とす暴力の痕跡。

 ウロボロスは旅人の顔をのぞき込み、眉をひそめる。

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「……記憶は……全部は奪われてはいないな。よかった……。」

 目の端に、何かが映った。

 山のふもと──
 人間の村へ戻る分岐の手前。

 雪に覆われる形で、1本の古い剣が地面に突き刺さっていた。

 柄には蒼い竜紋。
 ウロボロスが鍛えたのと同じ、繊細な紋様。
 旅人は思わず手を伸ばす。

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(……これは……ウロボロスの……?)

 剣を手にした途端、紋章が微かに青く光った。雪の冷たさの中で、確かな熱を持って。
 ウロボロスは険しい顔で見つめた。

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「……ずいぶん古いものが残っていたな。置いていった剣だ」

 旅人が振り向く。

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「ウロボロス……いつの話なんだ?」

 彼は答えず、背を向けた。
 長い黒髪が揺れ、鱗が淡く光り、人と竜の狭間に佇む姿は、何も語らず静止していた。

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「……帰れ。今度こそ。ここから先は……もう人間の世界だ」

 旅人の手に、青く光る剣がまだ握られている。
 その刃先は、旅人に選ぶべき道を静かに問いかけているようだった。

◆◆◆

 旅人の手にあった蒼い剣を、ウロボロスはゆっくりと視線で追った。
 柄の紋が雪の光を受け、微かに青く揺れる。

 ウロボロスは歩み寄り、竜化した鱗が雪を鳴らしながら手を伸ばす。

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「──この剣、ここにあったのか。 返してもらおう。」

 呆れた表情で、懐かしむ気持ちを混ぜながら息をつく。

 旅人は素直に頷き、剣をウロボロスの手に返した。
 鱗に覆われた掌が剣を掴むと、刃がきらめいて、光がほっとして柔らかく広がった。

 ウロボロスは剣を携え、旅人へと向き直る。

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「……さっさと行け。 
 お前さん……吹雪に遭って、散々な目にあったようだしな。禁足地に立ち入るなよ」

 声は荒くはないが、照れ隠しのようでもあった。
 旅人は苦笑する。

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「……うん。もう十分だよ」

 ウロボロスは、風と雪の匂いをまとったまま、少しだけ視線を逸らして続けた。

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「達者でな……」

 声には、人でも竜でもない彼なりの温かさが宿っていた。
 旅人は深く頭を下げ、山道をゆっくりと下り始める。
 振り返れば、ウロボロスの竜化した姿が雪と空の境目に薄く溶けていく。

 やがて旅人は山を降り、白銀の霊峰の輪郭が遠ざかる。

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 人間の世界の空気が胸に戻ったときようやく、旅人は無事帰還したのだと実感した。

 ウロボロスの屋敷も、黒い竜の脅威も、剣の輝きも。
 霊峰を越えれば、魔法と竜の世界は、遠い夢で薄れていく。

 旅人の胸に残ったのは、ひとつだけ。

 吹雪に揺れる蒼い瞳の奥に、不器用な別れのせりふが、今も旅人を呼びかけていた。
 物語はここで、ひっそりと閉じられる。