僕は蹲った体勢のまま、膝に残る体温がゆっくりと逃げていくのを感じていた。
粉雪の城が、陽射しひとつで崩れるみたいに。
抵抗もできないまま、体重が斜めに傾いで、白く冷たい床へと溶けていく。
虹色の破片がまだ喉の奥に残っていた。
吐き出したはずなのに、胸の奥にはまだ鋭い輪郭が刺さったままで、
横たわった体勢のまま呼吸をするたび、静かに、チリチリとヒビいて割れる音がした気がした。
夢が醒めることが怖かった。
起きても、幾一はもういないのだ。
であれば、もうずっとこのまま、玲瓏の床の一部になってしまえたらいいのに。
──
トイカケは淡々と終わった。
冷たくもあたたかくもなく、ただ事務的な幕引き。
それが救いだった。
もし少しでも優しい声で名を呼ばれていたら、僕はきっと砕けてしまっていた。
申し訳なさで、惨めさで、
今すぐにでも、消えてしまいたいと願ってしまったかもしれない。
──みんなが、あまりにも優しいんだ。
幾一はよくそう言った。
「どうして自分に優しくしてくれるのかわからない」と。
酔っている時の幾一は、まるで子どものように甘えた。
眠るまで手を離さず、呼吸を、体温を……確かめるみたいに僕を抱き締めた。
名前を呼んで、愛していると繰り返し伝えてくれた。
けれど落ち込んだ時は違う。
まるで精巧な陶器みたいに触れるだけで割れてしまう。
優しさを向けられるほど苦しむ人間が、この世にいると知った。
自分は誰かの時間を奪うに値しない、と。
誰かの善良さに寄りかかることが罪だ、と。
そう言って酒に沈んだ声を、今の僕はようやく理解できる。
幾一の痛みを追体験するほど、
わかっていくほどに、もっと好きになってしまう。
あの日より深く、今日より明日は、もっと。
───
意識が薄れていく。
白い天井が霞んで、瞳の焦点がゆるむ。
そのとき、最初に出会った日の光景が蘇った。
──雪が、酷く降っていた夜。
街灯の下で舞う雪は、ここと同じように。硝子の粉のように白かった。
幾一はそこに、まるで雪に還るつもりで横たわっていた。
吐息は白くて、指先は青く、
酒の匂いだけが異様に温かかった。
助けなければ死んでしまう。
そう理解した途端、僕の足は勝手に動いていた。
死にたいと言う彼を抱き起こしながら、
雪混じりの涙のような声でそう言ったのだ。
「死ぬ前に、キミのことを教えてほしい」
あれはただの思いつきの言葉じゃなかった。
──その
トイカケが、彼の命をひと晩こちら側に踏みとどまらせた。
僕はそれを知っている。
背中に彼を感じながら、暖かい場所に移動して。
浅い彼の呼吸を感じながら、朝まで隣にいたのだから。
そう、あれが最初のトイカケ。
雪の上で溶けかけていた命を、
僕の声がほんの少しだけ現世側へ引き戻した。
眠るまで隣にいて、脈を確かめる手を離さなかった。
起きれば問うて。そうやって、彼の人生の伴走者となって。
そして、一晩、もう一晩と、彼を生かした。
僕は、それを知っている。
あれは優しさなんかじゃなかった。
あの瞬間の僕はただ――
彼を置いていきたくなかっただけだ。
床に背を預けたまま、指先がかすかに痺れている。
体温はもう、自分のものというより……ここに残された熱のようだった。
天井の白は、うっすらと光を反射しながら、
まるで誰かの声を吸い込んだあとみたいに静かだ。
耳を澄ませば、遠くで氷の欠片が転がるような音がする。
それが本当に聞こえたのか、脳の奥で鳴っただけなのかも曖昧だ。
幾一は、あの夜。
僕の問いに答えるために、生きた。
では今の僕は。
──誰の問いに、生かされているのだろう。
息を吸う。
それだけで胸の奥のガラスが軋む。
痛みはまだ、僕をこの世界に繋ぐ鎖みたいに重い。
あの夜は繋ぎ止められたのに、
今はもう届かない。
けれど、それでも。
返事はなくても、
僕は問いかけを止められないのだと思う。
そして……今夜の僕の呼吸は、
あの夜の幾一と同じ……
問いで繋ぎ止められている。
幾一はあの夜、僕の声で生き、
僕は今、君の代わりに投げられる問いでまだここにいる。
答えのないままでも、
返事のこない方角へ、
僕は今日も呼ばれ続けている。
そうして……僕は意識を手放すのだった。
深く深く、白く、溶けていく。