
『魔女様、ネリネ様……いえ、貴方の使い魔になるのですから……マスター、とお呼びしても?』

『マスター、この魔導書の続きはどこにあるのでしょう?……えっ、どこにあるかわからない?』

『ああ、これですか?近所の人間様方からいただいたのです!お昼に一緒に食べましょう!』

『右も左も分からないワタシに様々なことを教えてくださって、
本当にありがとう御座いますマスター……!
いつか必ず、貴方のお役に立てるようもっとたくさん魔法の修行に励みますね!』
……悪魔は嫌いだ。
すっかり人間共はあいつらに絆されて魔女よりも悪魔の味方をするようになったから。
悪知恵を働かせる奴なんてほとんどいなくて、悪魔と呼ばれる癖に純真な奴らが多いから。
でも、そういう奴に限ってとんでもない悪魔の配下だったりするから、
気付けば奈落の底に叩き落とされていたりする。だから油断ならない連中で、面倒だから嫌いだ。
僕に首輪を外された黄金の悪魔は初めて見た時とは見違えるくらい明るくなった。
元々、あいつの方針と合ってなかったんだろう。穏やかな日々を愛する朗らかな悪魔だった。
魔法を教えてやると言えば喜んで学んで、家事を任せると言えば喜んで働いた。
他人の役に立つのが好きな悪魔なんだろう。だからあいつにそこを利用されていたんだ。
腹立たしいことに魔法の才能がありすぎるようで僕の考えた魔法はほとんど習得されてしまった。
あまりにも簡単に習得されてムカついたので、
最近は修行という体で面倒ごとは全部サンセールに任せている。
今日もあの子は僕の元に来た仕事を代役として片付けに行っていた。
まだあと二、三日くらいは戻らないだろう。
「……お前にしては遅かったね」
そんな中、静かに扉が開かれる。もちろんあの子じゃない。
「悪魔も耄碌したりするのかな?……久しぶりだね、ヴェンマイア。
それとも他の名前で呼んだほうがいいかな、お前は名前が多くて困るね」
あいつが、強欲の化身と人間たちに呼ばれている強大な悪魔がそこには立っていた。
いずれやってくるだろうとは思っていたが、想定よりもこいつの登場は遅かった。
黄金の力は大して気に入ってなかったんじゃないかって思ってしまうくらいだった。
けれども、何も言わずにただ立ってるそいつから漂う気配がそれは勘違いだと教えてくれる。
何もしていないというのにビリビリと空気が痙攣しているのがわかる。
僕がきっと悪魔のひとりだったのなら、この空気だけで縮こまってしまうだろう。
「……うちの
愛玩動物を拾ってくれたみたいだな、ネリネ」
「さあ、君のペットのことは知らないな」
「良いんだぜ、保護してましたと言ってくれて……俺は感謝してんだからさあ」
煌々と光るあいつの目が細められる。それだけで冷や汗が滴り落ちそうになるくらいだ。
感謝、なんてことをこいつがするわけがない。何もかも手に入れて当たり前の存在なのだから。
「あいつはどこにいるんだ?心配なんだよ、俺に顔を見せるよう言ってくれ」
「知らないよ、うちにいるのは君の所有物の悪魔じゃない」
嘘は言ってない。
こいつから所有権を奪い取ったようなものだから、あの子は今、強欲に隷属する悪魔じゃない。
……バキ、と家が軋む音がする。あいつが眉を少し動かしただけでこれだ。本当に嫌になる。
なんでこんなのと対峙する羽目になっているんだろう。……悪魔なんて嫌いなのに。
あの子のこと、サンセールのことを守る理由なんて僕には本来ないはずだったのにな。
「……もう一度だけ聞いてやる。次は返答に気をつけろよ、ネリネ。
あいつは今どこにいる。大人しく俺に返すっていうなら──」
「あの子はここにはいないし、お前に返すつもりもないよ」
「……、……そうか。……ああ、そうかよ。
お前は俺の優しさを無下にしようってんだな。残念だ。」
バキ、とまた嫌な音が響く。今度は僕の内側から音が鳴った。
なんでこんな目に、なんて思っているけれど……それでもこいつと相対する覚悟はしていたのに。
準備も、黄金の悪魔をサンセールにした時からこつこつと始めていたというのに。
そんなものは全部無駄だったと嘲笑うかのように、僕の体がまた嫌な音を立てた。
ああ、もう!なんでちっとも僕は敵わないんだよ!
「問題を先送りにすることしか能のねぇ魔女が、なんで俺に楯突けるんだよ」
コツコツと革靴が音を立てて近づいてくる。
反論しようにもどんどんと強まる圧に歯を噛み締めることで精一杯だ。
ああ、本当に嫌気がさす。今更何もかも放り投げて逃げ出したいくらい。
それでも睨みつけるように眉根に力を入れて、必死に僕は立っていた。
「お前は本当に哀れだな」
ゾッとするくらい優しい指先が僕の頬に触れる。
あいつはまるで大切なものでも愛でるような手つきで、愛おしそうに目を細めている。
それなのに食いしばっていなければガタガタ震えてしまいそうな程の威圧感がある。
言ってる事と態度、そして気配が何もかもめちゃくちゃで気味が悪い。
やっとの思いで動かせた手も、持っていた杖ごと握りしめられてしまう。
そしてバキ、と音を立てて杖が折れた。
「くだらねえ意地張ってって守ったとしても、俺はどうせすぐにアレを取り戻す」
「……さ、あ……どう、だろうね……?」
「……あ?」
震える唇を無理やり動かして笑った。
ごめんねサンセール、本当はこいつをお前の代わりにぶっ飛ばしてやりたかったんだけど。
流石に僕には荷が重すぎたみたい。
でも、大丈夫。僕のとっておきの魔法はもう既に君にかけてあるから。
だからきっと、こいつに君は見つけられない。
だからきっと、いつか、何もかも思い出してちゃんと自分自身で何をするのか決めるんだ。
全て思い出したら、もしかしたら、ひどく苦しんでしまうかもしれない。
初めて会った日よりも絶望してしまうかもしれない。
……でも、きっと君は大丈夫だと僕は信じてる。
押し付けるような感情だけれど、信じてるんだ。
だからこんなやつの所有物になんかにならないでね。
君はもっと素敵な人と出会って、たくさん大切なものを見つけるんだ。
いずれ思い出す最悪に負けないくらい、最高な思い出をたくさん作って。
そしていつか、僕のことも──……
「……強がりってのは随分と退屈な見世物だな。
ああ、クソ、時間を無駄にしちまった……おい、煽動、そっちの首尾を簡潔に言え」
『はーい!あのね、こっちはなーんもない!黄金郷も真っ黒けになっちゃってるよ!
黄金の気配はなし!これからそっちに行きま──』
「いい、お前はそのまま相棒の馬鹿犬を探しに行け。
どうせお前らは揃ってないと使いもんにならねぇからな」
『オーケーボス!見つかるまで帰ってくるなってことだね!』
「分かってんならさっさと探しに行け。……ったく、ナメてくれる……
こんだけ時間を割いて得たものは封緘とかいうくだらねえ力かよ……」
「……まあいい、どうせ全部俺の手の内に戻ってくる。
価値のねえ魔女のかけた魔法なんざ、俺の障害にもなりやしねぇよ……」