引っ越す前に何度か、彼の奥さんとメッセージを交わした。
相手が何を思っているのかは分からない。少なくとも、本人は理路整然と泥棒ネコと理性的な会話をしていると思っていたのではないだろうか。
それでも節々から滲む敵意は確かに、話す義務のある私をどっと疲れさせた。
私は彼が既婚者だと知らなかった。
調べればすぐにわかる話───だったと思う。
医師という仕事上、指輪を常時つけているわけでもなかったし、そういう話を彼から匂わすことがなかったとしても、口さがない看護師たちから聞きだすことは可能だっただろう。
何せ彼女は病院と提携している医局の薬剤師だった。結婚式も、職場の古株が何人か出席していたらしい。
もうすぐお子さんも生まれるんだとか。妊娠6ヶ月、安定期に入り、本人も落ち着きたい時期だろうに。
そんな事情もあり、彼女は離婚等は考えておらず、事を大きく荒立てたくないとのことだった。
少しばかりの慰謝料と、あとは私が彼と縁が切れればそれでいい。
家庭を今崩壊させたくないし、二人の両親にバレるよりも前に関係を丸く収めたい。
彼が私に妻帯者であることを意図的に黙っていた、と言うのは探偵の調査ではっきりと裏がとれている。
この件で最大の非があるのは彼であり、バカなマチルダは騙されていたようなもの。あなたも被害者。
とはいえ、すべてをなかったことにはできないから、円満に解決を望むのなら彼と距離を置いてほしい。
そうしてくれるなら、強く責は問わない。お金もいらないし、必要ならこちらから手切れ金を用意してもいい。
彼女の主張は、最後にはそう締めくくられた。
私と母にはなかった、強い家庭を守る意思を感じられた。
思う所なんてたくさんあるだろう。子供のこともあるのに、自分だって不安だろうに、一生懸命家族という特別を綻ばないように必死だった。
とても、正しかった。
正しいと思った。
私にはない正しさだった。
だから、私は。

「はい、わかりました。ご迷惑をおかけしてすいませんでした」
ここに引っ越して、カフェに行けば行くほど己の矮小さを知るようだった。
それと同時に、あそこは私の夢にまでみた特別に少しだけ足場を作ってくれる。
不思議と頑張れるような気がしていた。それがただの勘違いであったとしても、私を覆い隠す虚偽を見つめていてくれるならもうそれでいいような気さえした。
でもそれはあのカフェ、あの人達ありきの特別で、私自身が特別になったわけじゃあなかった。
運よく開いたカフェは、少しずつ遠ざかっていく。私の指の隙間から逃げるみたいに、ドアノブはゆっくりと取り上げられていく。
あくる日、私はカフェを探すがてら、手持ちが心もとなかったために銀行に足を運んだ。
私は彼女からの支援を拒否したが、それとは別に口座にお金が振り込まれたのを銀行窓口で知った。
彼に教えたことはなかったはずだが、おそらくは病院伝手で振込口座を知ったのかもしれない。
そこにはたくさんの金額が振り込まれていた。意図する事は、すぐに伝わった。
今まで見ないようにしていたメッセージを確認すると、彼の最後の返信は『妻を愛しているんだ』という一言だった。
意味もなくSNSを開く。匿名では入れないブログサイトに飛び、彼の名前を検索した。
そこには幸せな家庭写真が並んでいる。
優しいご両親、裕福な家庭、美しい妻、背を伸ばして笑う彼。
私の持ちえないもの全てがそこに詰まっている。
瞬間、何かが自分の頭の中で切れた音がした。
もう、事が起きてから時間が随分立っている。しかしそれらは話題にする人々の関心が薄れる程度にしか傷は言えず、一つ壊れかけた家庭がやり直すにも、男に裏切られた女が立ち直るにも確かに、確かに時間は浅かった!
心の底からあざ笑った。自分のこと、相手のこと、全て。
ずっとみんなの方が正しいって思っている。
感情を抑圧して、自分に言い聞かせ続けている。
泣きわめくのって、ヒステリックでかっこ悪い。泣いたってどうしようもないんだから、張りつけた笑顔で誤魔化すしかなかった。泥棒ネコが追い払われるだけ。何も間違えてない。そうでしょ?
それだけ。
でも正しいだけじゃあ何にも、なんにも救われなかったね。
みんな立派なフリをしているだけだったんだよね。
分かってる。私救われたかったし愛されたかった。
誰でもよかったんだろう。浅ましい話。
承認欲求があって、それを埋める形がたまたま男女の形だったり、姉妹の形だったり、親子の形だったりしたんだ。
特別な関係に憧れを抱いていた。でも本当は知ってるよ、それってべつに、実はたいしたことないよね。
実はどこにでもありふれた関係で、意外と手に取るとメッキで出来てることに気がつくんだ。
たいして特別でもなくって、ゴールテープを切っても華々しいクラッカーはならない。素晴らしい未来が確約されるだけの関係なんかじゃあ全くないんだ。
私は天使になりたかった。なんでも愛せる人になりたかった。
あるいはピエロでもよかった。笑われてても笑い返してあげられるみたいな、完全に自分を覆い隠す化粧が欲しかった。
私っていつも中途半端。
白衣の天使にもなれなかったし、みんなを楽しませる道化師にもなれなかった。
いい子のふりだけして、誤魔化して、笑ったふりして当てつけみたいに逃げ出した。
今も。今もそう。希死念慮に誘われて、恨みがましく自分の終わりで周囲を傷つけようとしている。
分かってる。本当はこれだってただの。
ただの。
……。
<fold>わがままにすぎない。###
本当は知ってる。誰が一番、私を蔑ろにしているか。
この暗闇から引き上げられるのを待っているふりして、差し伸べられた手を見ないふりしているのが誰なのか。
耳を塞いで大声をあげて泣けばよかっただけなのよ。
知ってるのに、どうしてうまく立ち上がれないのだろう。
みんなみたいに真っすぐに歩けないのかしら。
楽になりたいってうずくまって。くだらない。
それでも、もう少しだけ息をしたい。
馬鹿だから、何度だって期待している。</fold>
記載は途切れ、赤いチューリップが一輪だけ窓辺を揺らしていた。
黄色い風船のキリンが主の帰りを待っている。空の酒瓶と、見慣れた珈琲の空き缶が机の上に転がっていた。
空はいつも青い色をしていた。雨は晴れ、分厚い雲の隙間から窓辺にむけて日差しが差し込み、爽やかな風が木々の葉を爽やかに撫でていく。
白いベッドシーツは乱れたまま。端末は狂ったように音を奏でていた。着信音はひっきりなしだったが、誰も手にとらない。
通知画面には男の名前が繰り返し上がり、ある時間を境に両方ともぷっつりと途切れ。
幕が下りる。