不幸 | 記録詳細

不幸

記録者: 名もない女 (ENo. 68)
公開日: 2025-10-19

泣き叫ぶ母親の握る手から、患者の手が滑り落ちた時私は息ができなくなった。
小さな女の子だった。

「赤い髪の毛、きれい」

あの子は前歯が一本、新しく生え変わったばっかりだった。
生まれつき血液に問題があり、入退院を繰り返していた可愛いお姫様。
私が新任だったころ、たまたま談話室で声をかけてきた。青白いほっぺの、指先のつめたいおじょうさん。
ミランダ。ミランダ・テペンス。ゲームが好きで、眼鏡をかけていた彼女。
彼女はここの地方では珍しい赤毛の私に興味を持って、なにかと髪に触りたがった。
それは彼女の家族が仕事からミランダの病室を訪ねてあげられない、寂しさの発露だったように思う。

「わたしが結びたい、むすんだげる」

振り返ると、患者に接することで自分は自己承認欲求を満たしていた節があった。
彼らによりそって、誰よりも親切な看護師でいることで己は誰かに必要とされているのだと信じたかった。
ミランダはそれを十二分に満たしてくれた。大人びた彼女が甘えた一面を見せるのは自分だけで……特別扱いされていることに優越感すら覚えていた。
彼女は都合のいいお人形のようなもの。よく慕ってくる、小型犬。可愛らしい私のよすが。
悪い看護師だ。患者のことを、見下しているようなものじゃないかと自嘲すらおちる。
世話を焼く事で患者に情が移るのは医療従事者においてよくある話だ。人の入れ替わりの激しい病院でも、繰り返し現れる常連に愛着を抱くのだから、長期入院患者との関係が密接になってしまうことは珍しいことではない。
私が新米にありがちなはしかにかかったのは、避けられない事実だったのだろう。

「そばにいて。さびしい」
「手を握ってるわ」
「マーチって私のおねえちゃんみたい」
「そう?じゃあ……マチルダ・テペンスって名乗っちゃおうかな」
「え~!ママにお願いしなきゃ」

妹みたいに愛していた。
可愛らしい彼女のことを本物の家族のよりも、ずっと。患者を特別扱いするなという主任の言葉を無視して、映画チケットをとって、彼女のために特典をもらってくるくらい。
今にして思えば愚かしい。
アイテムを渡す際にミランダと喧嘩して、仲直りする前に彼女は病状を悪化させて意識が混迷しそのまま帰らぬ人となった。
弱まる心臓を前に、ミランダの母は諦めた声で「もうやすらかにしてあげてください」と神と医師に願い出た。
私は、その時漠然と感じていた医療現場の残酷さを知ったのだ。
大きな声で諦めないでくださいって、いうべきだっただろうか。
それとも、殺さないで下さいと縋るべきだったか。
どちらもできないまま、私は小さなお姫さまは安らかに天の国に旅立ち輝ける星のひとつになった。
私は葬式に出たいとすら申し出れなかった。
そうしたって、きっとミランダの家族は許してくれただろう。
呼吸もできないほど泣く私に頭を下げてくれた彼らは、そうしてもいいと言ってくれただろう。
だけど、私自身が赦せなかった。
なにもできなかった。なにが正しいかもわからなかった。なにか、間違えた気がしてならなかった。
分かってる。新米の看護師ができることなんてほとんどなかった。現代医学では彼女は本当ならもっと早くに亡くなっているはずだったんだから。
それを医師たちが手をつくし、親が懸命に足掻いた結果。彼女は苦しまずに優しい終わりを手に入れたんだ。彼女は愛されて亡くなった。それがすべて。よくある話だ。この業界ならなおさらに。

それでも私はバカだった。特別な力もなかったくせに、何かできたのではとずっと自分を責め立ててしまう。
放心するように、一か月ほど過ごしていた。
可愛い彼女のいないベッドを、分かっていても苦しかった。

「マチルダくん、大丈夫かい」

その時に彼は近づいてきた。
弱り目に祟り目とは、本当にそのことだったんだろう。

疲れてしまった。誰かに縋りたかった。だから、彼でよかった。今これだけ傷ついて、全て失ってもまだ、彼を恨まないでいる。
私はその時、確かに彼に救われたのだ。彼だって、私が求めなければきっと健全な家庭を持ち続けていたのだろう。
お互い、都合が良かったんだ。
恋に破れ、愛は終わったとしても、彼は私を助けてくれた。
それは変わらない真実で、私はそれを彼の疚しい傷にしたくなかったから逃げ出した。
今は?