灰のように沈む灯が、天井の高みに揺らいでいた。
紙と灰の匂いが溶け合い、夜の深みに似た静寂が降りている。
「私の姿を使用した件については、どう申し開きなさるおつもりです?」
ラヴィルネは机に書物を広げたまま、眼だけを上げていた
正面では煙草を燻らせた"それ"が片脚を組んでいる。読まれぬ本を肘掛け代わりに、灰を溢すのも厭わぬ仕草。火花の残滓が漂い、頁の端をかすかに焦がした。
「申し開きぃ? いやァ、ほら。見た目が同じ方が都合いいかと思ってネ。
"ラヴィルネ"で行けば誰も驚かないし、誰もオレを知らない」
「驚くに決まっているでしょう。流浪が過ぎて耄碌しましたか」
ラヴィルネはこめかみを指先で押さえ、細く息を吐いた。
漂うのは紙と灰の匂い。書架の影が、ふたりの間でゆるやかに揺れる。
「それよりサ。初めての異世界観光はどうだった?」
"それ"の声は低く、煙の向こうに笑みを忍ばせていた。灰が宙を舞い、影に溶ける。
ラヴィルネは淡々と頁に呪印を光らせる。積まれた本の山。そのうち半分は、彼女の頭痛の原因である。
「……談話が不向きであることを再確認しました。しばらくは一人で過ごしたいです」
「フッ、クク……。やっぱりな。気が弱いなんてヴィルらしくない」
「チッ」
昏い光の下、灰色の眼が僅かに細められた。
短い音が、紙よりも冷たく響く。ラヴィルネは手にしていた書をぱたりと閉じた。
「……視えてきたことはあります。
異なる世界でも、人々の行動原理は大差なく、群れがあれば善悪は流動します」
「土産にしては渋いンじゃあないかい?」
「観察結果です。 他人の痛みを自分のものと錯覚し、他者の幸福を羨むような光景でした。
お陰で、どのような振る舞いが自分の利になるのか理解しましたがね」
「フッハハッ! 鈍臭いヤツを演じていた訳だ」
「演じるというより、正しく観測するための仮面です。
声を荒げる者は注意され、控える者は疑われない。虚勢を張るより、静かに構えていた方が得るものは多い」
「其れは皮肉かい。笑える」
"それ"は僅かに肩を竦めた。
「軽々しく魔法を扱う光景には少しばかり緊張を覚えましたが……
私の関知する領分ではありません。あの世界では異端視されないようです」
「ヘェ。ソイツを聞けば楽園だな」
「楽園にしては喧しい。
理想論と善意で構築された平和ほど、脆いものはありません」
オリヴァは喉の奥で笑い、火を弾いた。橙の灯が一瞬、書架を撫でて消える。
「これ。貴方の持ち込みですか」
「応、そう。土産。読めた?」
「……貴方の"土産"はいつも火種の香りばかり。
何をどうすればこんなものが紛れ込むのですか」
「退屈していただろ。読書以外に何がある?」
「ありますよ」
「例えば?」
「貴方を焼かずに済む理由を探すことです」
沈黙。灰が落ちる音すら止まり、影が深く息を潜めた。
"それ"は肩を揺らして笑い、火を弾く。橙の灯が書架の木目を撫で、すぐに消えた。
「怒ってる時のヴィルは魅力的だよ」
「……本当に、面倒な人ですね」
ラヴィルネは目を伏せ、筆を取った。
「一つ頼まれてくれませんか」
「ああ?」
「外つ国の魔導書です。構造を解析しました。焚書をお願いします」
「ヒト使いが荒いなァ。ほんと」
「火加減の心得は貴方の専売でしょう。
──灰すら遺さぬように」
火の匂いと紙の音。
その奥で、静かに焔が揺れた。