書架の底にて | 記録詳細

書架の底にて

記録者: (ENo. 59)
公開日: 2025-10-29

 灰のように沈む灯が、天井の高みに揺らいでいた。
 紙と灰の匂いが溶け合い、夜の深みに似た静寂が降りている。

「私の姿を使用した件については、どう申し開きなさるおつもりです?」

 ラヴィルネは机に書物を広げたまま、眼だけを上げていた
 正面では煙草を燻らせた"それ"が片脚を組んでいる。読まれぬ本を肘掛け代わりに、灰を溢すのも厭わぬ仕草。火花の残滓が漂い、頁の端をかすかに焦がした。

「申し開きぃ? いやァ、ほら。見た目が同じ方が都合いいかと思ってネ。
 "ラヴィルネ"で行けば誰も驚かないし、誰もオレを知らない」

「驚くに決まっているでしょう。流浪が過ぎて耄碌しましたか」

 ラヴィルネはこめかみを指先で押さえ、細く息を吐いた。
 漂うのは紙と灰の匂い。書架の影が、ふたりの間でゆるやかに揺れる。

「それよりサ。初めての異世界観光はどうだった?」

 "それ"の声は低く、煙の向こうに笑みを忍ばせていた。灰が宙を舞い、影に溶ける。
 ラヴィルネは淡々と頁に呪印を光らせる。積まれた本の山。そのうち半分は、彼女の頭痛の原因である。

「……談話が不向きであることを再確認しました。しばらくは一人で過ごしたいです」

「フッ、クク……。やっぱりな。気が弱いなんてヴィルらしくない」

「チッ」

 昏い光の下、灰色の眼が僅かに細められた。
 短い音が、紙よりも冷たく響く。ラヴィルネは手にしていた書をぱたりと閉じた。

「……視えてきたことはあります。
 異なる世界でも、人々の行動原理は大差なく、群れがあれば善悪は流動します」

「土産にしては渋いンじゃあないかい?」

「観察結果です。 他人の痛みを自分のものと錯覚し、他者の幸福を羨むような光景でした。
 お陰で、どのような振る舞いが自分の利になるのか理解しましたがね」

「フッハハッ! 鈍臭いヤツを演じていた訳だ」

「演じるというより、正しく観測するための仮面です。
 声を荒げる者は注意され、控える者は疑われない。虚勢を張るより、静かに構えていた方が得るものは多い」

「其れは皮肉かい。笑える」

 "それ"は僅かに肩を竦めた。

「軽々しく魔法を扱う光景には少しばかり緊張を覚えましたが……
 私の関知する領分ではありません。あの世界では異端視されないようです」

「ヘェ。ソイツを聞けば楽園だな」

「楽園にしては喧しい。
 理想論と善意で構築された平和ほど、脆いものはありません」

 オリヴァは喉の奥で笑い、火を弾いた。橙の灯が一瞬、書架を撫でて消える。

「これ。貴方の持ち込みですか」

「応、そう。土産。読めた?」

「……貴方の"土産"はいつも火種の香りばかり。
 何をどうすればこんなものが紛れ込むのですか」

「退屈していただろ。読書以外に何がある?」

「ありますよ」

「例えば?」

「貴方を焼かずに済む理由を探すことです」

 沈黙。灰が落ちる音すら止まり、影が深く息を潜めた。
 "それ"は肩を揺らして笑い、火を弾く。橙の灯が書架の木目を撫で、すぐに消えた。

「怒ってる時のヴィルは魅力的だよ」

「……本当に、面倒な人ですね」

 ラヴィルネは目を伏せ、筆を取った。

「一つ頼まれてくれませんか」

「ああ?」

「外つ国の魔導書です。構造を解析しました。焚書をお願いします」

「ヒト使いが荒いなァ。ほんと」

「火加減の心得は貴方の専売でしょう。
 ──すら遺さぬように

 火の匂いと紙の音。
 その奥で、静かに焔が揺れた。