柔らかな風が頬を撫でて通り過ぎていく。
花弁のようなものが舞った気がして、追うように目を動かしたが
ひとひらも見つけることは叶わなかった。
もしかしたら、ただの気のせいだったのかもしれない。
「──あれ、ワタシ」
そんなことよりも帰らなくてはと足を動かしかけて、はたと立ち止まる。
さて、一体どこに帰るつもりだったのだったのか。
ワタシは方々を旅して人間様方のお手伝いをする悪魔であるのだから、
帰る場所というものは存在しない。
「……なら、そう、次はどこへ行きましょうか」
いつの間にか傾けていた首を元に戻して空を仰ぐ。……ああ、良い天気だ。
この降り注ぐ日差しがもっと暑い地方だと、どういった暮らしをしているのだろう。
それを知るために今度はそちらの方へお邪魔してみてもいいかもしれないな。
向けていた足を反対側へ向け直し、暑い地方を目指して歩き出す。
さて、次はどんな方々に出会えるのだろうか。
振り返ろうとするとなぜだか頭がぼんやりするので、振り返らずにまっすぐ歩いていく。
世界は広く、さまざまな場所に人がいる。だから立ち止まってぼんやりするのは勿体無い。
人間様方の願いを叶えることが、それだけが生きがいであり喜びなのだから。
少し不思議な感覚を訴える自身の体のことは……別に放っておいても大丈夫だろう。
「何せ悪魔なのですからね、病である筈もありません!」
気のせいだ、きっと。なにもかも。
足取りが普段よりもちょっとだけ、重い感じがするのも。きっと、気のせい。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……あれが、ネリネちゃんのお気に入り……ね」
楽しげな表情を浮かべたまま、どこかへ歩いていく悪魔を眺めていた。
あの子が守りたかったものはどうやらアレで間違いがないみたい。
キラキラと微かではあるけれど彼女の魔力の残滓が悪魔を祝福するように舞っているから。
私からすれば、初めから手なんて貸さない方がいい相手だとは思うけれど。
ただでさえ面倒なやつの元飼い犬なわけだし。
でも、あの子はあの絶対勝てない勝負に全てを賭けてでもあの悪魔を守りたかったんだろう。
その思いを私は踏み躙りたくなかった。もういない、可愛い同族の願いを私は守りたい。
「ひとつ貸しだよ、黄金の悪魔くん」
放蕩の魔女からの祝福を、君に。
望むままに、気の向くままに、君はあらゆる世界を旅したらいい。
何にも知らない君のポケットに異なる世界行きの切符をあげる。
どこにいくのか見届ける必要はない。下手に関わるとあれが私を嗅ぎつけるだろうし。
そのままスイ、と箒を動かして飛んでいく。私も他の世界に行こう。
素敵なお菓子と美味しい紅茶が私のことを待っているのかもしれないし。
ヴェンマイアくんは、ちょっと私の好みじゃないし、ね。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
俺の目に奴の姿が映らなくなった。
首輪が外れたとしても俺が俺の所有物を見つけられない筈がないというのに。
苛立ちから何もかも壊しそうになる衝動を抑えて煙草に火をつけた。
「……渡り、か」
俺の目が届かない場所、となればこの世界では天使共の領域くらいしかない。
ただ奴はどんなに馬鹿だろうが悪魔だ。天使に助けを乞ったとしても消されるだろう。
となれば、後の可能性はもう一つしかない。
誰かがあいつを他の世界に渡航させたのだろう。流石に異世界は俺の手中にはない。
「その程度で逃げ切れるとでも思ってんのか?」
紫煙を吐き捨てて、もう消えた魔女に向かって舌打ちを零す。
どこの誰に協力を頼んでいたのかは知らないが、異世界に逃した程度で
この俺からあいつを逃し切れると思われていること自体が癪だった。
……ああ、わかったよ。いいだろう。
そっちがその気ならくだらねえその鬼ごっこに付き合ってやるよ。
丁度この世界のものだけじゃ満ち足りないと思っていた所だ。
他の世界を蝕むついでにつまらねえお遊びにも興じてやるとしよう。
あいつらがやってるのはただの時間稼ぎだ。
ただ見たくないもの、苦しい思いをすることから逃げ出しているだけに過ぎない。
あれが後々自分の罪を思い出して、あのままでいられると本当に思ってんのか?
馬鹿馬鹿しい。ちゃんと受け止められる筈がない。
あれは俺が生み出した中で一番上等な粗悪品だ。悪魔であるのに、悪魔ではない。
それを長年使ってきてやったのはどこの誰だと思ってるんだ?
壊れないようにちゃんと首輪を絞めてやってたのは俺だというのに。
「俺があいつを一番上手く使えんだよ……」
ぐしゃりと煙草を灰皿に押し付ける。
早く愛しのボスが迎えに行ってやらないとあいつが哀れで仕方ない。
そうだよな、黄金の。
お前は俺の下にいた時が一番幸せだっただろ?
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サンセール、
どうか幸せになってね。