『月』はいつも、誰かを見ている。
届かないものに手を伸ばしている。
ずっと、ずっと、それを続けている。
暫く通い詰めていた扉がある日突然消えてなくなったとしても、別に何も変わらない。
ずっと、ずっと、月を見つめ、彷徨うだけ。
月へといってしまった、とても大事な『
光』。
いつか空想の全てが尽き果て、世界が本当に終わりを迎えようとも。
夢見る神が目覚めても、世界が5分の更に前に戻ったとしても。
最後の最後まで、変わらない。滅びを迎えても尚、『
月』がいるのなら。
ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。月を見つめ続ける。

「…………ああ。でも、」

「あのカフェの扉が消えてしまったのは、悲しいね」

「あそこはとても雰囲気が良くて、とても気に入っていたのだけれど」

「……でも、きっと。この悲しい気持ちも、いずれ忘れていくんだろうね」

「あの大人たちと同じように。忘れることで、心を護っていくんだ」

「……私も、私たちも、ずっとそうしてきた」

「…………みつかっちゃった」

「あの扉の行方は、誰にもわからない。僕にもわからない。
けれど、それでも尚。月を見続ける程に時間を持て余しているのなら。心の寂しさが埋まらないのなら、」

「ちょっとしたお話を、聞かせてあげる。
でも、長いお話だから。アールグレイティーでも飲みながら、ゆっくり聞いてくれたら嬉しいな」
僕と私は、生まれた時から常に一緒に生きてきた。
ずっと、ずっと、一緒。これまでも、これからも。
死ぬ時も、一緒。そう、思っていた。
それは、不慮の事故だった。偶然の悲劇だった。
突然の事故で『光』は潰え、永遠にいなくなってしまった。
幼い片割れの突然の別れに、誰もが皆悲しんでいた。死を悼んでいた。
けれど、時がたつに連れ、死の悲しみは薄れ、忘れ、皆大人になっていく。
皆、忘れてしまったの?悲しんでいないの?
『あなた』の心は、未だにあの時に取り残されたまま。
『あなた』は、『あなた』だけは、片割れを忘れたりなんて、できなかった。
そうして、『光』は生まれた。自身の心の中に。

「死者を生き返らせる魔法も科学も、何もない。
だから僕は、光は生まれた。月の空想上の片割れとして」

「僕たちは、幸せだったよ。それが空想だとしても、皆にどのように言われても。
……けれど、聞こえてしまった声を、すぐに忘れることなんて、できなかった。それがどんどん、積み重なって」

「だから僕は、月へいくことにしたんだ」

「空想上の僕はいなくなって、あなたは現実を見て大人になって、それでおしまい」

「…………おしまい、だったらよかったんだけど」
それでも僕は、『あなた』のことを忘れることなんてできなかった。
『あなた』のことを忘れない。忘れたくない。
だって、『僕』が『月』のことを忘れたら、誰があの子が生きていたと証明するの。
忘れることができないまま。大人になんてなれないまま。
空想上の片割れは月の裏の人格として焼き付いていった。
「月へいってくる」
その言葉を信じるのなら、光はきっと、瞳に浮かべている月の中にいる。
ティーカップの水面に浮かぶ月のように。その月は、一番近くて、一番遠い場所にある。
それでも『あなた』は僕のことを探し続けて。
どこにもいなくて、どこにもいけなくなって、部屋の中で一人引き籠もって、空想に耽りはじめた。
よくある中世ファンタジーみたいな剣と魔法の世界。
植物が進化し、ビルのような高さの花々が喋りかけてくる世界。
人型のクッキーやキャンディが暮らす、全てがお菓子で出来た世界。
捨てられ、無用となったおもちゃ達が細々と暮らす世界。
かつての文明が水中の中に沈み、魚達が新たな人類となっている世界。
それらの空想はやがて現実に滲み始め、侵食し、世界が置き換わっていく。
夢を見続ける本人は、それに気づかないまま。世界はゆるやかに、おかしく、捻れて滅んでいった。

「いつか空想の全てが尽き果て、本当の世界を見たとしても。それでもきっと、変わらない。
だったら僕はどうしたら良かったんだろう」

「…………なんて、きみに言ってもわからないよね。ごめんね。
とにかく、長くなったけどお話はこれでおしまい。楽しいお話だったかは…… わからないけれど」

「僕とも、私とも、これでお別れ。ちょっとの間だったけど、一緒にお話してくれてありがとう」

「分け合った食べ物はとても美味しかったし、皆の話を聞くのが、とても好きだった」

「またいつか、どこかで。月がきれいな夜に」